古文書のお勉強会の予習課題「政鄰記」の
題材として五十川剛伯なる人物が取り扱われました。
名前すら伺ったことすらない、相変わらず目出度きヤツだ。
藩主前田綱紀の時世に「加賀藩儒」300石として仕えた一角の儒学者・漢学者で在られたという。
五十川剛伯は藩主綱紀の命を受けて明国の知識人朱舜水の下に入門し最先端を行く漢学や漢語を身に付け「学聚文辨」「助語集要―全120巻」「文範―全17巻」「詩範-全9巻」の高度な文献を続々と編纂し藩主の文治政策に大きく貢献したという。
其の間剛伯を下支えし後ろ押しした協力者に林鵞峰(羅山の子)・五十川梅庵(剛伯の父)・奥村康礼(加賀藩家老)・木下順庵(綱紀が加賀藩へ招致した儒学者)・水戸光圀ら錚々たる顔触れが出揃う。
剛伯が如何ほどの期待の星であったかが覗える。
ところが此の日の出の勢いで頭角を現した五十川剛伯ではあったが思いも寄らぬ不祥事が発覚し瞬時にして奈落の底へ転がり落ちた。
側室の子の貨幣偽造の罪に連座して剛伯は能登への流刑に処せられた。
只此処で少々気掛かりは何ゆえ莫大な「政鄰記」の記録の中から五十川剛伯を抽出したのだろうか。
生きた年代は異なるにしても津田正隣と五十川剛伯とが何らかの細い糸で繋がっているのだろうか。
教材用のテキストに敢えて五十川剛伯を掲げた根拠は何かしらあるのだろうか。
次回の講義が実に待ち遠しい。