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今日のお勉強会は大河ドラマに因んで悲劇の将軍足利義輝が越前の朝倉義景へ差し出した内密のお手紙の事でした。
其のお手紙の日付が弘治2年(1556年)とある。
弘治2年と言えばドラマでは道山・義龍父子の骨肉の争いの年であり、その折義龍により明智城を落とされた光秀は義景の一乗谷に身を寄せることになる。
ドラマの役者が揃ったことになる。
加えて義景の正室が管領細川晴元の娘であった関係で義景は足利将軍家に縁故があった。
それで当時加賀の一向一揆勢に手を焼いた義景は将軍義輝からのお力添えを得て一時的に和睦に至ったという。
其の間の経緯をしたためた義景宛ての短い書簡のおさらいでした。
ところがどうしてどうして崩し字の難解さも然ることながらそれ以上に恰も何かの隠語のように内に秘めた複雑な意味合いが幾重にも重なり合っておつむの構造の単純なものには此の上なく梃子摺るばかりなのです。