老いのひとこと㉟

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我が母方の津田本家筋は武断派に属し分家の方はどちらと云えば文治派に属しはしまいかと勝手に目論んでいた。

その根拠は5代目当主要人の跡を継いだ嫡子平左衛門近英は御先弓頭や御持筒頭を歴任し小将頭に昇り詰めており、その嫡子7代目和三郎近知は御馬廻御弓矢奉行を相勤めた。

更には此の和三郎近知の嫡男津田十之進近明は成瀬正居に師事し旧来の火縄銃を改良して雷紛筋入異風銃を考案し外来のライフル銃とその性能を競い合う程の銃の達人でもあった。

明治元年には北越戦争に参戦し福山村に部下20名と共に陣地を張ったという記録も残る。

処が此の十之進近明は翌2年には巡邏に任命され小隊長に昇進したという公式記録を残したまま忽然と姿をくらましてしまうのです。

丁度其処へ急転直下F氏より横やりが入り何の事はない此の十之進は和三郎の実子に非ずして養子であり、しかも其の後釜を引き継ぐはずの津田近三とは同一人物であるとの衝撃的ダブルパンチを浴びることになるのです。

津田本家の武断派路線が見事に脱線してしまった。

文知派である分家筋の所縁の人物が武断派本家を継いだというよりも既に今枝家の血統が流れる津田本家を守った。

いや、そうではない十之進近明という津田近三が総合的俯瞰的観点に立ち津田一幽家の家系を一時的に守ったことになる。

 

 

津田十之進近明という名の津田近三は昭和4年刊行の「石川縣史」によれば本県の警察

制度の礎を築いた人物としてその功績が今に燦然と輝くのです。

 

母としから見れば十之進&近三オジサンは伯祖父オオオジになる。

母のお爺さんのお兄さんに当たる人になる。

わたしに取っても身近な人物なのである。

其の人物が妙典寺に鎮座する「津田半山君の墓」を建立し、此の墓石は津田一幽家の象徴として此れからも後の世に末永く生きながらえることでしょう。