老いのひとこと㊽

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遠藤高璟三女鉚の墓碑銘について

 

はじめに

二百余年の幾年月、野田山芝山の地に鎮座した津田家の墓地は不本意にも取り払われて早くも二年余りの年月が過ぎた。

幸い、金太郎と清三郎が遺した二面の碑文は写真撮影と乾拓による石摺り拓本で確と記録保存された。

特に清三郎の分には史的価値を指摘なされる河崎倫代氏・三浦純夫氏・三田良信氏の権威ある先生方の手により解読の運びと相成った。

 

此の三氏のご尽力により経年の風化や劣化で文字が欠落し解読不能な箇所には卓越した学識から編み出す推論を覆い被せて学術的体裁を確と整えて頂いた。

 

鉚の死亡後、夫清三郎の依頼を受け実父遠藤高璟は明倫堂助教であった大嶋桃年に墓碑銘の撰文を頼んだものと推察される。

清三郎は此の芝山の地にそれを刻んだ鉚の墓碑を建立した。

其の後、実母鉚の愛息近吾こと香太郎は父清三郎と清三郎の後妻操の死亡後、三人の為に新たなる墓碑を建てた。

其の折には左側面の銘文書体等をそっくり模写させたものだろうと上記の三氏は推察なされたのである。

 

なお、そもそも此の津田家に纏わる貴重なる文物との馴れ初めは深雪に被われた野田山墓地にてと或る人物と偶然にも遭遇したことにある。

その人物こそ野田山に精通した舟田敏氏に他ならない。

以後今日に至るまで色々ご好誼いただく間柄にある。

感謝致さねばならない。