やあ、やっぱり親父も乃木希典に惚れ込み心酔していたのか。
酒好きの親父さんは飲むほどに酔うほどに
希典の詩を吟詠したのだろうか。
微笑ましく途轍もなくでっかい親近感を覚えてしまう。
しかし、わたしが知る限り倹しき借間住まいの親父さんには床の間そのものがなかった筈だ。
その親父の心中をば慮れば遣り切れない思いに浸る。
問題は此の掛け軸の筆者の名を六十二叟薙( な)桐 ( きり )天郎と玉川図書館の学芸員さんに読んで戴いたのだが一体この人物の正体や如何に。
六十二叟( そう)の叟の意味は翁=年寄りらしいので六十二歳の年寄りである薙桐 ( なきり )天郎が書いたことになる。
希典に関わり深い薙桐天郎とは一体何者か何故其の六十二叟を名乗ったのだが鑑定団の増田孝先生か田中大先生に正直尋ねてみたい。
介錯なしに十文字腹で掻っ捌き最期は剣尖に覆い被さり喉笛を貫通し果てたという。
それは当然ながら数万に及ぶ若き兵士の命を犠牲にしたおのれの非行への悔悟の念が凝縮し集約されたものと信じたい。
此処に言わんとするは決して戦争賛美ではない、当時ですら大塚楠緒子は女性の良心を「お百度詣」に託して世に著わし世に問うたという。
親父の生前に此の「爾霊山」を隠し持った理由を親父と一献酌み交わしながら談判してみたかったものだ。
因みに、希典自決の1912年は1900年生まれの父忠勝は多感なる12歳の少年になる。
尓霊山険豈難攀男子功
名期克艱鉄血覆山々形改
萬人斎仰尓霊山
六十二叟薙桐天郎書
尓霊山は険( けん)なれども
豈(あ)に攀 ( よ )じ難からんや
男子の功名は克艱( こくかん)を期す
鉄血山を覆いて山形改まる
万人斉( ひと)しく仰ぐ尓霊山
六十二の翁薙桐天郎之を書く