鶏小屋のやっさんから手伝って呉れないかと頼まれる。
麦わらを拾いたいのだという、家内の実家のアン様が減反政策に乗じて大麦を栽培したのだと話しながら軽トラを走らす。
行き先は手取大橋をわたった辰口地区の三ツ口町まさに穀倉加賀平野の真っ只中ではないか。
車窓からはいつも窺い知るところだが其の現地に立って機械化に伴う耕地整理の何たるかを目の当たりにした。
素晴らしい黄金色に輝く麦秋の光景にこそはお目に掛れませんでしたが広大なる耕地が何処までも白山連峰を背景に延々と続く。
大型のコンバインが活躍した後に敷き並べられた麦稈がこれまた延々と続く。
機械化農業とは裏腹に偉く対照的な人間による手作業が待っていたのです。
腰を屈め拾い集め穂先を揃えながら束ねて行く抑えながら重圧を加え一抱え以上になれば荒縄を通して結わえて行く。
身を屈めるだけで負担を感受る者にはやはり相当の重労働、何分一億総活躍時代に呼応するには弱音は吐けまい耐えねばならなかったのです。
名画「落ち穂ひろい」のような牧歌的情景は何処にもない。
だんだんと時間が経つにつれて作業はぞんざいになり投げやり的になり機械的捨て鉢的になってゆくのは自分でもわかる。
二時間が限度である労働には苦痛が伴うことを久し振りに体感する。
わたしには此の歳に至っても寛容と余裕のこころが全く足りないことをよく知った。
ミレーの絵には深い深い意味合いが秘められているらしいがわたしの目にはそんな労苦の痕はなにら感じさせない。
働く喜びと感謝の気持ちだけが伝わってくる。
そこがミレーのミレーたる所以なのでしょう。