老いのひとこと

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県下にいながら久麻加夫都阿良加志比古神社を知らなかった。


在処も呼び方すら分からない。


其処で此の「くまかぶとあらかしひこ神社」について歴史博物館にて色々教えて頂いてきた。


此の神社が秘蔵する門外不出のご神体ならぬご神像を目の当たりにすることが適った。


一千年の時が経過しているのに拘わらず活きているように生々しい。


凄まじい怒りの形相が宙を睨む。


 


もともと神は姿なき存在であったが後発の仏教に仏像があるのなら神道にも神像が在って然るべしと仏像に見習うように現われたと云う。


また神像とは神さま方が仏教に帰依したお姿に他ならないと云うのです。


神と仏が同一視され習合されていった。


此の齢になって神仏同体説とか本地垂迹( ほんじすいじゃくせつ)を勉強する機会を与えていただき嬉しい限りではないか。


嘗て気多大社の大講堂にご本尊として阿弥陀如来像が安置されたと云う其の実物を見せ付けられて只々唖然とする。


信心薄き不届き者には神も仏もいっしょくちゃになって頭がおかしくなる。


幼稚な頭が破裂しそうだ。


 


曹洞宗大本山永平寺を守護する神は白山権現だと云う。


夏には雲水たちは禅定道で白山に登ると云う。


 


帰るに際し受付嬢に「久麻加夫都阿良加志比古神社の神像」の宣伝用ポスターを所望いたせば快諾くだされ何んと二枚も頂戴してしまった。


机の前に掲げて日毎手を合わねばならない。


然すれば如何なる困難な憤怒に遭遇してもたちどころにこころ鎮まり治まることだろう。


 


此の神像はわたしの怒りを代行している。


こころから怒ることの大切さを無言で示唆している。

           しんぞうに合掌