老いのひとこと

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麒麟」に学ぶー2


 


われらに宛がわれた史料は二点、その一つは天正3年8月21日付の光秀直臣の小畠永明に宛てた書状ともう一つは同じく天正3年の9月25日の日付の愛宕山の威徳院に宛てた書状の二通である。


天正3年と云えば信長が越前の一向一揆を壊滅させた年であり又加賀の一向一揆に対してもその壊滅の足掛かりを作った年とも云える。


信長公記に従えば天正3年の8月15日から8月19日までの五日間で光秀・秀吉・勝家ら三万余の信長軍勢に悉く殲滅され男女を問わず一向宗徒3~4万人が斬り捨てられたと云う。


相前後して光秀・秀吉らは加賀へ乱入し能美郡と江沼郡を制圧したとの記述もある。


此の戦乱の直後に拘わらず戦で負傷した部下を気遣い丁重な書状を送った。


光秀の優しい人柄が滲み出た史料だと評価されようが反面累々と幾重にも重なる幾万人もの屍が此の時代の宿命を如実に物語る。


此の書状を認めた頃に光秀には信長より丹後への出陣命令が下りることになる。


丹後出陣を前にして光秀は愛宕山の威徳院へ9月25日に書状を書いた。


其の中で光秀は信長より加賀国の代官職を仰せ付かったが何事もなく処置したと書いている。


具体的に何を為したかはわたしには解からないが何らかの形で明智光秀加賀国との関わりがあったことだけは間違いなさそうだ。


此の夏の日の宿題としよう。


解きほぐす気力を先ずは養わねばならない。