下手糞老いぼれ剣士のルーツ《3》

下手糞老いぼれ剣士のご先祖様が、この歴史上紛れもなく実在した証を、この手で掴んだときの無上の感慨は忘れがたい。
九世の祖父大橋源左衛門と八世の祖父覚兵衛の両名が仕えし主君・大垣城主伊藤長門守祐盛と彦兵衛盛正の遠き遠き末裔たる小松市在住の伊藤達氏が立派なる生き証人であられることに違いない。
いずれにしろ、関が原が天下分け目の合戦であった通り、当家のご先祖様にとっても歴史上重大な岐路に立たされていたことがよーく分かったのである。
やはり、宿命みたいものを感じざるを得ない。


 この伊藤家の由緒書『藤原氏伊藤氏伝』へ行き着くまでの経緯や遠き道のりを述べねばならない。とにかく、わが九世の祖父たる大橋源左衛門なる人物が歴史上に足跡を残し、しかと実在したことを何が何でもこの目で実証したかった。
先ず金沢市立玉川図書館にて美濃国の近世史に係わる史料として『新撰美濃志』『大垣城主歴代記』等で調べてみたが判明しなかった。
それで大垣市立図書館へ直接照会状を差し出し、当方の主旨に添った内容の返答に大きな期待を寄せた。  数日後の平成十七年五月五日の日付で大垣市立図書館の専門図書室に勤務される長瀬とも氏より格別の朗報を手にすることができたのである。
それによると従来からの定説であった伊藤彦兵衛盛正の死亡説が見事に覆って、彦兵衛盛正の生存説が提起され大きな反響と共に関係者間に波紋を投げかけているとのことであった。丁度、関が原の合戦四〇〇年の記念の年つまり西暦二000年(平成十二年)の年に当たったとのことで地元ご当地では脚光を浴びつつ大々的に報道されたらしいのである。
長瀬とも氏より提供を受けた参考資料は次の通りである。

   慇照?擦錣街』NO・二七四号 二000年三月発行
◆  慇照?擦錣街』NO・二七九合 二000年八月発行
   中日新聞 二000年三月十九日号記事の写し
ぁ  …日新聞 二000年三月二十日号記事の写し
ァ  …日新聞 二000年五月十七日号記事の写し
Α  ヾ阜新聞 二000年十月七日号記事の写し
А  慇仞邯姓氏歴史人物大辞典』角川書店   
一九九八年発行(抜粋)                以上                     

 これらの史料を隈なく点検したが大橋源左衛門に係わる解答は見当たらなかった。ただ、伊藤彦兵衛が関が原の後に身を隠しながら逃避行を続けた足取りの概略は先に述べたとおりだが、その中で注目すべき事実として、大垣城主であった伊藤家の子孫が二人現存されることを確認できたのである。
 但し、その内の一人は岐阜県南濃町に居住される伊藤善夫氏で伊藤家の傍系の子孫として以前より大方の知るところであった。つまり伊藤善夫家に伝わる由緒書である『伊藤家沿革史』の中に彦兵衛盛正は家康より切腹を仰せつかり、討ち果て伊藤家は断絶したとあることが歴史上認知され彦兵衛死亡説が定説となって定着していたのである。
 処が今新たに彦兵衛の直系の正統なる血統を辿る末裔の方が小松市能美町に在住され名を伊藤逹(とおる)氏というのだという。
 膳は急げと早速、小松市の伊藤達氏へお手持ちの史料にて大橋源左衛門並びに子息大橋覚兵衛の名前の確認方を急ぎ要請した次第なのだ。
 先方は当方からの願いを快く了承されて返書に託して貴重な史料を送付してくださった。
大垣城主・伊藤長門守祐盛、彦兵衛盛正らの菩提寺過去帳、『伊藤家由緒書』及び『伊藤家系図』などの発見について》と題する十九ページ立ての素晴らしき冊子を手にした次第だ。謂う所の『藤原氏伊藤氏伝』を始めとする古文書類を口語体に書き改め活字に組んだものだ。
 伊藤達氏は毛筆でしたためられた原典の内、核心を突く触りの部分をカメラにてアップ撮影され印画紙に焼き付け添付されたのだ。何よりの証拠物件に違いない。

 われらが九世の祖父・大橋源左衛門尉並びに八世の祖父・大橋覚兵衛父子は紛れもなくこの戦国の乱世に雄雄しく実在したことを、ものの見事に証明してくれた。

 長門守の家老 大橋源左衛門 3千石 長門守存命中に病死す

 図書頭の家老 大橋覚兵衛  源左衛門の長男 安芸において知行が少しあった 加賀に来て子孫あり

図書頭とは一体何者か。実は、伊藤彦兵衛盛正は関が原にて敗退後、伊藤図書頭利吉と名前を改めて逃避行したのだ。わずかこれだけの簡略な記述ではあるが実に重みのある一言一句である。

もともと由緒書自体には百パーセントの信憑性があるとは言い難いのだが、源左衛門が長門守存命中に病死とあるがこれは多分病死ではなく見事な討ち死にを果たしたことと理解した方が潔くてよいではないか。
何分、高橋家の由緒書には生年は不詳だが没年は慶安三年(一六五〇年)とあり戦国乱世にしては随分長生きをしている。誤差が五十年間以上に及ぶのだ。戦乱時における長命はやはり解せないではないか。
想像の域を出ないが当家の始祖となる人物をば書面上極力延命させたのではなかろうか。
主君ならば自身の家臣をばより客観的によりシビアに把握し捉えていると理解するならば長門守存命中に病死にあらずして天晴れなる戦死を遂げたと理解した方が大いに納得し易いのである。
 更に、先にも述べたことだが源左衛門が彦兵衛の代にも仕えて百五十石給わったとの下りは、どう見ても彦兵衛いや図書頭利吉に仕えたのは源左衛門にはあらずして嫡子覚兵衛であったに違いない。
安芸において少しばかりの知行ありきはこの百五十石を指すのだろう。主君が浪々の身でありしかも逃亡中ならば、なおのこと百五十石でも厚遇過ぎるとさえいえまいか。
 また、覚兵衛には金沢に既に子孫があったとはどういうことか。広い意味に解して親類縁者があったと言うことか。
それならば大橋一族は加賀国に土着の地侍あるいは土豪であった可能性が有力視できよう。加賀の一向一揆に関わっていそうな気もするが、しかしそれらを詮索する術は現段階では見当たらない。
 伊藤彦兵衛盛正こと伊藤図書頭利吉は金沢の地にて元和九年(一六二三年)に三九歳にて夭逝した。金沢での滞在はわずか三ヶ年であった。心労が絶えない過酷な境遇がそうさせたのだろう。菩提寺は寺町の松月寺なのである。図書頭利吉の利の一文字は三代藩主前田利常から戴いたのだという。   つづく