老いのひとこと

何時ものように額谷に向かう、額四峠を脱兎のごとく駆け摺り降りる勇壮なる御仁あり。

短パンに横縞模様のランニングに胸にはアクセントあり。

近付けば、何のことはない上半身は素っ裸、縞模様は肋骨の凹みでありアクセントは男性の乳房であったのはないか、まったく恐れ入りました。

 

日陰のある大庇の下で何時ものメニューに取り組む、すると体育館の管理人さんがあたふたと現われ、スワ一大事と言わんばかりに「子犬の死骸だ」と叫ぶ。

直ぐに戻って来て曰く、「子キツネのようだ」「役所へ連絡しなくちゃ」と立ち去る。

 

何時もので悪い癖、野次馬根性がムクムクと燃え上がりあたふたと痛い足を引き吊りながら携帯持参で急行す。

確かに頭部は小さい、大きな耳が直立し細長いシッポに手足の鋭い腱は確かに飼い犬ではない。

いたいけなくも母狐にはぐれて息絶えた、静かに首を丸めてうずくまる。

愛しき母を想いながら幼き命は昇天している、巨大な金蝿がなんと憎たらしいことか。

 

失礼かとも思いつつ神戸の孫へ転送す。

生物に多大なる興味を抱く孫ならばこそ厭わず嬉しそうに受け入れて呉れたのです。

いたいけない此の野生動物の屍と共に生物の命を共有することが出来て何よりでした。

 

遠くの方でツクツク法師が哀愁帯びた鳴き声で共に死を悼んでいる。

 

 

老いのひとこと

泉野図書館で旧石川郡崎浦村関する資料を数冊閲覧したが悉く期待外れに終わった。

崎浦公民館が編纂した「さきうら」なる刊行物に大きな期待を寄せたのだが虚しくページを閉じた。

大正年間の崎浦尋常高等小学校に関する記載は皆無なり、歴代校長名がかすれた活字で薄ぼんやりと並び居る。

先日紐解いた「ながどへい」とは比較するに及ばず余りにも大きな隔たりに愕然とす。

編集責任者のこころざしの在り無し、その質量ともに雲泥の差を痛いほど感じ取る。

 

其の足で小立野小学校にて往時の崎浦小学校時代の職員録を調べて貰おうとハンドルを握るが複雑な道路事情で、更には一方通行の不運にも見舞われ右往左往する始末、諦めざるを得なかった。

止む無く近くにあった「崎浦公民館」にて一枚の写真資料に出逢う。

大正2年撮影の卒業集合写真、児童らと一緒に当時の教職員が写る。

女の先生2人、男先生11名内洋装5名と和装6名、和装は代用教員だろう。

勝太郎じいさんらしき人物を見付けたり!

〆たぞー収穫ありきだ!

 

 

老いのひとこと

資性恭倹にして

祖父勝太郎は大正14715日退職したのだが、それに先立つ大正8815日には謝恩会が催され感謝状並びに銀杯と債券1葉が贈呈されたと明記される。

身に余る美辞麗句で飾られさぞかし祖父もご満悦であったであろう。

 

父忠勝が祖父について多くを語らなかった其の訳は此の書状に全てを託したのであろう。

お前ら三人のジイさんは此の書面に書き表わされるような素晴らしい教育実践者だったのだと父忠勝は我ら三兄弟に無言の伝言書を残して呉れたのです。

そう断言したい。

その父の配慮に報い適えることが今漸くにして叶えられたことになる。

 

 

わしらのジッ様はむかし崎浦小学校の先生をしとったがや、みんな分かったんかいや。

弟たちと語り合い笑い合った。

 

それに引き換え、子や孫はまったく無頓着と言ってよい。

 

先日墓参の折りには此の忠勝・勝太郎のご両人に感謝の意を伝えて参りました。

 

今此処に我が身の法名「釋正鈍」を改め「釋正勝」に改名いたす決意を表明いたします。

父忠勝・祖父勝太郎に改めて敬意を表さねばならない。

 

近々、泉野図書館にて大正年間の石川郡崎浦村の村史と崎浦尋常高等小学校の職員録を紐解いてみることにしよう。

 

 

 

老いのひとこと

身近な祖父勝太郎ではあるが父忠勝からは何ら詳細なことは聞いてはいなかった。

仮に聞かされていたにしろ盆暗者には馬の耳に念仏であったのかも知れない。

勝太郎の生誕が文久2年(1862年)5月朔日、没年が昭和3年(1928年)なので昭和10年生まれのわたしには祖父とは面識がない。

僅か20俵の秩禄が廃止され、なけなしの一時金を手にした祖父は新竪小の裏門辺りで駄菓子屋を開店したが「武士の商法」よろしく直ちに廃業したのだという。

その後警察官の道を歩んだやに父からは聞いてはいたがよもや教員の道に迷い込んだとは恐れ入る次第だ。

石川郡崎浦村の村立崎浦尋常高等小学校にて明治41年(1908年)に勝太郎46歳にして代用教員として任用され、以来17年間の長きに亘り奉職し大正14年(1925年)に勇退したとのれっきとした記録が此処に在る。

勝太郎は63歳で退職し、其の3年後の66歳にして其の一生涯を終える。

 

今わたしの手元には往時の「感謝の辞」二枚と謝恩会に際しての「祝辞」が一通ある。

我が家の家宝級の逸品になろう。

まさに讃辞の贅を尽くす素晴らしき名文で祖父勝太郎の秀でた人柄が随所に宝石のように散りばめられる。

 

 

 

 

老いのひとこと

家内が異なるものを持ち出して来た。

むかし、わたしから預かったので大切に保管して来たのだという、わたしには全く身に覚えは無い。

恐らくは、家内は高校時代の恩師駒谷先生の書だと信じ切っていたのだろう。

確かに筆者は崎浦小学校卒業生総代 駒谷青雲とありわたしの父忠勝に深々と感謝の意を丁重に表しているかに一見伺える。

ところが肝心の日付を見落としていたのです。

浅はかにして余りにも迂闊すぎた。

大正14年の日付に気付かぬままに文意を解釈して仕舞っていた。

とにかく品格高尚にして素晴らしき秀作名文なのです。

ところが此の大正14年には、金沢高校の名校長として名を馳せた駒谷先生は未だ此の世にはいらっしゃらない。

青雲の名は駒谷校長の実父に違いなく、はたまた此の日付の年には忠勝は弱冠25歳の新米教師にして該当する筈がない。

然すれば、此の謝辞の文面にある高橋先生は忠勝には非ずして其の父勝太郎のほか考えられない。

 

ハシッとお見事なるお面を一本頂戴しました。

 

我が祖父勝太郎は警官上りの人物かと思いきや意外や意外教師道に精通せし御方であったとは此れ驚き以外の何物でもない。

お盆を機に、我が家内は恐るべき新史実をわたしの前に突き付けたことになる。

 

 

老いのひとこと

週に一度のデイサービスデー、午前9時から12時まで年寄りたちの保育施設,朝の点呼で名を呼ばれればお手てを挙げてお返事だ。

概ね無口で無表情、虚ろなお目めで伏し目がち取り分け嘗ての勇壮な男衆、どちらかと申せば皆疲れ果てた表情でなんとなく静かで覇気がない。

ご多聞に漏れず此処とて矢張り女衆、どちらかと申さば口数多くして皆饒舌だ。

椅子に掛けてのお遊戯会、皆嬉々としてはしゃぐことなく黙然と身をこなす。

保育園の保母さんに見立てた理学療法士のインストラクターも大変だ。

恰も、呑む気のないお馬さんに水をば呑ませるが如く、並外れた指導力が問われましょう。

お疲れさまでした。

それでも皆の衆、拍手で以って先生の労をねぎらったのでした。

 

 

老いのひとこと

本当に何も知らない無知の権化には勿論「弥陀の本願」も初耳だった。

お釈迦様が説いた「弥陀の本願」を平たく言えば「阿弥陀如来(如来とは悟りを開いた高僧)の願い事」だというらしい。

さてさて此処には「釈迦」と「阿弥陀」の二人の佛さまがお出ましだがわたしには全く区別がつかなかった。

其れが今、此の小冊子のお蔭で全容が明るみになったではないか。

此の無限に広がる大宇宙の中で最高位に位置する佛の中の佛が阿弥陀如来であって、此の地球上に在られる釈迦如来とて遠く及ばぬ存在で大師匠にひれ伏す弱小一弟子の間柄にあるのだと教わった次第だ。

阿弥陀如来を頂点に此れを師と仰ぐ釈迦如来、釈迦如来を師と仰ぐ親鸞聖人、親鸞聖人を師と仰ぐ蓮如上人と連綿と続く厳しき上下関係が何となく薄ぼんやりと分かり始めた。

さて、肝心かなめの「弥陀の本願」とは一体何ぞや。

此の貴重なる手引書に依れば、「阿弥陀様の本当の願い事」とは「全ての人をば、必ずや絶対の幸福の境地へと導く」「全ての人の不安や恐れの心境から逃れさせ救済する」ことだという。

原典に基けば「摂取不捨の利益」と何とも難しい文字で書き表わすらしい。

 

お寺の門前の難解なる親鸞のお言葉もきっとそのようなことが書かれているのでありましょう。