2012-04-01から1ヶ月間の記事一覧

老いぼれへぼ教師の回想記《83》

じゃすといんたいむ 企業見学レポート=その3 1 トヨタ自動車工業株式会社(3) 此処に、徹底的なムダ排除による原価低減を期するための最大の柱=「ジャストインタイム」が登場するのである。 一台の自動車が、組み立てラインをラインオフするために必要…

うらなりの記《82》

高橋家次男=鉄二家の人たち(4) 鉄二は代替として難関中の難関たる日本電電公社に採用された。 彼は、常に温厚実直なる実務に専念し評価された。 労務管理の分野においてその手腕を遺憾なく発揮し遂には天下のNTT西日本の労務課課長職にまで登り詰め…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《79》

任運とは人の作為を加えずにそのままであること。自然とそうなること。 夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(5) ③【如此の時代は吾も人も取りとめて習うべき隙もなく、若又たまたま習うても、戰場其外の眞實の働に及では、俄に習ふを以て勝利も得難く、只面々の運…

老いぼれへぼ教師の回想記《82》

企業見学レポート=その2 1 トヨタ自動車工業株式会社(2) 昼食をはさみ午後2時まで、会社の概要とトヨタ生産方式について加藤、横内両氏より説明があった。 通常の場合、生産工程では或る程度の仕掛品在庫を持って、各工程間のトラブルや需要変動に対…

うらなりの記《81》

高橋家次男=鉄二家の人たち(3) ところが、事もあろうに鉄二は国立大学一期校の入学許可証を辞退してしまった。自らの英断であった。 その理由たるや長男たる私への学資送金の上に更なる金銭的負担を、わが父親に強いることを自ら憂慮して身を引いてくれ…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《78》

帝釈天 阿修羅 夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(4) ②【數度の場に逢て、自己に勝理を合點して、内心を堅固にすわる事、當世諸流の秘傳極意と云う物よりもなほ慥かなる者多し、】 口語訳 このような修羅場 ( しゅらば )を何度も潜り抜けた兵 ( つわもの )ども…

老いぼれへぼ教師の回想記《81》

企業見学レポート=その1 今から30年前の昭和56年(1981年)頃のようすです。 当時は、世界第二位の経済大国として名実ともにその実力は燦然 (さんぜん)と輝き、その製造業の勇姿は赫灼 (かくしゃく)としていた。今時に比すれば隔世の感をつよくす…

うらなりの記《80》

高橋家次男=鉄二家の人たち(2) 鉄二には一目置いていた訳だ。それが如実に表われたのが泉が丘高校を出て一浪をしたものの金沢大学教育学部一甲を難なく射止めたときだろう。 当時には、弟に対し祝意を表する以上に只々脱帽あるのみであった。 母としは…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《77》

永禄、天正の頃は織田信長の時代 狩野永徳の弟 宗秀の作 夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(3) ①【先師夕雲の談ぜらるるは、當世より百年計以前迄は、兵法さのみ世間にはやらず、其仔細は、天下亂國なるによって、武士安座の暇なく、毎度甲冑兵杖を帶して戰場に…

老いぼれへぼ教師の回想記《80》

バブル崩壊後、構造改革路線によるリストラ時代に突入し契約社員や派遣社員を耳にし非正規雇用が常態となぅてしまった。 必然的にニートやフリーターが世に溢れデフレ社会に拍車をかけている。 片や一方、政権交代は見事に頓挫し政治は混迷し停滞したまま一…

うらなりの記《79》

高橋家次男 高橋鉄二家の人たち(1) 昭和十三年生まれの次男鉄二は正に名は体を現すの喩え通り鋼鉄のような凛凛しさを宿していた。 腺病質な脆弱体質の持ち主たる長男坊と異なり豪放磊落な気性は周囲からも将来を嘱望されていた。 小心翼々として弟の顔色…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《76》

夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(2) 付記 Ⅰ 【】内の文語体 ( ぶんごたい )は山田次郎吉 ( やまだじろきち )著「続剣道集義」にみる『剱法夕雲先生相傳』の写しであります。 Ⅱ 口語体 ( こうごたい )に訳した文章の本体は、株式会社東京コピー出版部発行(昭…

老いぼれへぼ教師の回想記《79》

その五 挑戦と試練挫折の河北台(27) 企業派遣研修(11) 民主教育とか人権教育の隠れ蓑に隠れて人間として最も基本的な温かいマナーとかエチケットをすら心得ぬ善からぬ仲間を囲ってしまった嫌いがある。 また、指導的立場にあって人を管理する者の中…

うらなりの記《78》

実弟利治は、冒頭に掲げた通り高橋家の嫡流として本家を引き継ぎ押しも押されもしない当主として高橋家を相続してくれている。 血統から言えば、その源流は信長・秀吉の頃実在したと思しき大橋源左衛門からの血筋を死守してくれていることになる。 勿論、こ…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《75》

夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(1) 殊の外寒かったことしの冬にも春の日差しがふりそそぎ色鮮やかな季節を迎えた。 そして、今まさに桜花満開。 のどかな光景にさそわれて、一つ手漕ぎの屋形船 ( やかたぶね )にて漫遊 ( まんゆう )の旅にでも出てみません…

老いぼれへぼ教師の回想記《78》

無気力相撲とは無縁のウルフ横綱昭和56年頃 昭和56年頃のあの当時、少なくとも私の直に見聞した各企業の中には、三無主義の陰は微塵たりとも見出し得なかった。 みな清楚で凛としていた。 然すれば、教育の現場にこそ何か重大なる欠陥が潜んでいるとし…

うらなりの記《77》

弟利治は石川マツダ株式会社の取締役にまで上り詰めた。 整備ライセンスと販売実績を引っ提げて、裸一貫の独力での勝利であった。 仮に中小零細企業であったにしろ、役員待遇の地位と肩書は末代までの栄ある名誉に違いない。 今此処に改めて、その偉業を永遠…

補足(焼き直し)

甲野善紀氏は針谷夕雲をどのように観察し評価したか 現代の論客甲野善紀氏は無住心剣の針谷夕雲を物の見事に切り捨てられた。完膚なきまで打ちのめし論破された。 剣の術技が伴わない心法だけの剣術は根無し草同然世に定着するは難し、いかに鈴木大拙が肯お…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《74》

甲野善紀氏はNHKのテレビジョンでもよくお見受けした。 まさに此の時代の寵児的存在で在られる。 著名なる解剖学者養老孟司先生や元読売ジャイアンツの桑田真澄選手らとも親交厚く国民的な英雄如き現代の剣客でいられる。 一雲の書いた『夕雲流剣術書』…

老いぼれへぼ教師の回想記《77》

オイルショックを経て高度成長に翳りが見え始め、またあさま山荘事件は若者たちの政治運動を衰退させた。 それまでの日本国の一時代は終わりを告げ、国中に無力感とか失望感が充満しはじめた。 三無主義は、このような時代背景のもとに忍び寄ったのかもしれ…

うらなりの記《76》

合掌…正座不能 その八 高橋当主=利治家の人たち(3) 母の手一つで育った利治だが終戦直後の極貧の中苦労も多かったろう。 昭和三十年に母としは五十を待たずに四十七歳の若さで世を去った。 母失いし年、利治は十二歳の多感な少年期を迎えていたが、母の…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《73》

富永半次郎先生 わたしの、読解力は極めて貧弱で遅鈍である。 富永半次郎著「剣道に於ける道」を県立図書館より借り出したまま一向に返本しようとはしない。 幸い予約者が入らないので延長また延長、借りっ放しが叶うのです。 飛ばし読みとか斜め読みではな…

老いぼれへぼ教師の回想記《76》

茨城県牛久市立下根中学校(うしくしりつしもねちゅうがっこう) その五 挑戦と試練挫折の河北台(24) 企業派遣研修(8) 当時の中高校では、廊下の片隅に壁を背に蹲 ( うずくま )るように無気力にして無表情にしゃがみ込む物体があっちにもこっちにも辺…

うらなりの記《75》

その八 高橋家当主=利治家の人たち(2) 父は決して、放蕩三昧なことをして身上を潰してしまうような人ではなかった。 確かに日本酒の愛飲家ではあったが家庭を顧みない人では毛頭ない。 にもかからわず、わが家は極貧のどん底にあった。 少なくともこの…

老いぼれ剣士の夕雲考《72》

若かりし頃、鉄舟所縁 (ゆかり)の「高歩院」にて直々大森曹玄禅師に師事され「直心影流」を修得された桐田修男氏は山田次郎吉の著作物たる「日本剣道史」「剣道叢書」「剣道集義」等々の全てを蒐集所持される。 わたしは、折を見ては閲覧を願い出て借り受け…

老いぼれへぼ教師の回想記《75》

サントリーの佐治社長から株式上場を示唆する発言があったのだという。 でも、非上場企業であったが故に株主の顔色を見ることもなく、また採算を度外視してまでも大胆不敵にに“独自の風味”に挑戦し続けられたのではないか。 その結果が、ビール類の国内シェ…

うらなりの記《74》

昭和18年頃のようす。電力消費が規制され、その70パーセントが軍需産業に優先され一般産業を含めた家庭消費分は推して知るべし。やがて、灯火管制が常態となる、その頃アメリカ合衆国にはノーベル物理学賞受賞のイタリア人亡命者”フェルミ”がウラン核分…

老いぼれへぼ剣士の夕雲考《71》

白井亨(・・・) 天真一刀流の妙手白井亨は針谷夕雲の大フアンであって、小出切一雲の書いた『夕雲流剣術書』を貪って愛読していたとは、何とも微笑ましい。 その白井亨が所持する愛蔵本の写しを、今わたしたちが直に目にしているとは、これまた驚きの一語…

独り言

続きの367歩目です。 それにもかからわず、こりゃあ何でしょうか。 与野党の対立構図ではなく、与党内での抗争には呆れ果てて物も言えない。 いがみ合い嫉み合い、足の引っ張り合う様は、唾棄されてしかるべき愚挙であることに何故気付かぬのか。 縄文時…

独り言

わたしの366歩目に当たり 365×7000=255万5000歩 7000年前に竪穴式住居で土器を用いて、土偶をつくり貝塚の周りにコミュニズム社会を形成し、みな仲良く協力し合いながら集団生活を送った。 そのあと、日本民族の255万歩目の日にはいったい何が・・・ …