うらなりの記《74》

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昭和18年頃のようす。電力消費が規制され、その70パーセントが軍需産業に優先され一般産業を含めた家庭消費分は推して知るべし。やがて、灯火管制が常態となる、その頃アメリカ合衆国にはノーベル物理学賞受賞のイタリア人亡命者”フェルミ”がウラン核分裂に成功させ、次いでオッペンファイマーにより本格的原爆製造へとつながって行く。これじゃどう見ても勝ち目はない。
 
その八 高橋家当主=利治家の人たち(1)
 
 母とし貞淑なる女性として忠勝に仕えた。
 また三子の母親として子育てに邁進した。
 更には職業婦人として時代の先駆をきって教師の道を切り開いた。 
 そして一家の主婦として家事一切をも切り回した。
 共稼ぎ家庭を立派に切り盛りしたのである。
 昭和十八年に三男利治の出産を機に教職の道を退いた。
 戦時の最中、スナップ写真どころではなかった。
 利治の幼少時を留める記念写真は一枚もない。
 飢餓状態を辛うじて切り抜けただけのことである。
 18年生まれの弟とは八才の年齢差になる。