タイ行きツアーに参加して=その3
海外旅行に行けるご身分が羨ましいとのコメントをいただいた。
なるほどだと思った。
意義あるご指摘を得たものだと感じ入った。
誇示するほどの表現は避けたつもりだが、そのように映ったとすれば、わたしの不徳の致すところ大なのです。
物見遊山やグルメより別のことに寄り添った人たちがいたことを云いたかったのです。
わたしは名所旧跡を引き摺り回されるより、雑踏の片隅で息衝 (いきづ)く土着の人たちの生活の断片を盗み見るという悪い趣味の持ち主なのです。
目立たぬ“ノーピクチャー”の掲示板の陰で目を光らすお巡りさんの表情の方が、慈悲深いが賢者ぶった仏様 (ほとけさま)のお顔より興味深かったのです。
日本人が甚振 (いたぶ)られている光景がわたしの視覚のファインダーに突然入ってきたのも、まさにその時だったのです。
雑踏の片隅で来る宛てのない客を求めて佇む行商の老婆たち、年輪と云おうか刻まれた辛苦 (しんく)の皺 (しわ)をも売り物にして、「籠の雀」や「干しバナナ」、「角錐形に整然と積み上げたココヤシの実」「様々な民芸品」などをみすぼらしい露店に広げてひねもすゆったりと只ひたすら待っている。
視線が合えば、微 (かす)かな微 (かす)かな微笑 (ほほえ)みで目配 (めくば)せの挨拶が成立する。
結構いたる処にて、夥しい数の放し飼いされた猫や犬たち、でも決して目線が合うことはほとんどなかった。
かれらは観光客の目を避けているように映った。
猫はすべてシャム猫のように見えた。もったいないと思った。
ご多分に洩れず、この仏教国においても相当深刻なる格差問題が浸透していそうだった。
その横には、同じ境遇の老犬がぐったりと力なくお供していた姿が痛々しかった。
シャッターを押す勇気はどこにもなかったし、固よりあるはずもない。
シンラガーの味はどこまでも苦 (にが)っぽく美味 (うま)くはなかった。