老いのひとこと

 

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               無断掲載

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蘇山と碧海との接点を求めて近世史料館へ参ったがやはり空足同然に終わった。

でも「勧業博覧会への出品目録」の貸し出しに与かったことは了といたさねばならない。

明治年間に都合五回催された内国勧業博覧会に馳せ参じ応募した五千有余の芳名が掲載され工芸立国の礎を着実に築かれていった其の足跡を確と知り得たです。

取り分け加賀藩から培われた伝統文化が明治期に開花し我が石川県は面目躍如たるものが在る

ことを知った。

その一翼を担ったのが紛れもなく阿部甚十郎碧海で在り初代諏訪蘇山(実名諏訪好武)であり明治20年に金沢区立工業学校(現県立工業高等学校)を創立した納富介次郎(天保15年(1844)生まれの佐賀藩士)たちであった。

此の三者の交友関係は定かではないが納富介次郎が校長時に同校教諭として諏訪好武が教鞭を執り、また納富校長が編纂した図案指導書「温知図録」の中に阿部甚十郎碧海製・春名繁春画=色絵金彩海龍図游環花瓶が掲載されることからすれば此の三者三様独自の見解を有しながらも石川の工芸の為に互いに尽力し合う間柄であったことが検証されたことになる。