老いのひとこと

             無断掲載

そう云えば小西清君との馴れ初めは昭和34年、彼が12歳此のわたしは学卒時の23だったので65年の歳月があっと言う間に流れ去り何んと清君は77の喜寿年ではないか。

当時の面影はとっくに消え失せ今やわたしと変わらぬ禿げジジイなのだ。

それでもあの当時と変わりなく気安くクン呼びしても何んの不自然さも感じさせないのだ。

 

今年の彼からの賀状にて、あの嘗ての木柱が朽ち果て倒壊したので再度の制作依頼をば受けていたので今それが現実の話と相成った次第なのだ。

 

思えばあの菊水分校で教鞭を執りし同僚や先輩諸氏数多いる中で白羽の矢がわたしに舞い込むとは此の上なき光栄の極みと云えまいか。

 

思い起こせば、此の写真は赴任三年目の昭和36年の春遠足にて獅子吼高原のレストハウス前にて記念に撮った一齣になる。

思えば強引なことをしたものだ、本校の管理職への通告もなく小3の彼らに標高647mの後高越えを強いたとは此れ何事だ。

幾ら山育ちとは言え其の無謀さは否めない、今日的感覚で申せば当局への苦情殺到の大騒動だろうが当時は実に大らかで善き時代であったものだ。

持参の弁当を摂り何事もなく下山できた、時季を逸すれば夏草生い茂り到底踏破は無理、当然長老からの助言サポートがあったらこその一大企画でありました。

 

その写真を焼き増しし此の際、清君のお手を煩わせて50名近い当時の仲間たちへ可能な限りの配布方を書簡に託してお願い申した、清君なら厭わず遣って呉れるだろう。

 

彼の世へ逝かば出来ぬ事、此の木柱を契機に好か事を為したものだ、善かったよかった。