下手糞老いぼれ剣士から少年剣士へ《上》

真面目に黙想をして「剣の心」を鍛えよう


道場によっては正座と静座とが紛らわしいので静座とは呼ばずに黙想と言い表わしているところが多いようです。
全日本剣道連盟の定めでは黙想ではなく静座と言う方のが正しいらしい。
ましてや、黙祷とか瞑想と称している道場はあまり聞いたことがないところからしても決して似つかわしいものではないでしょう。
いずれにしろ稽古の前と後には、何処の道場においてもこの静座(黙想)を励行するのが習わしになっています。もっとも至って形式的にではあるが・・・
とかく今日的剣道観においては試合にて勝利することに全眼目を置き剣技の錬磨にのみ執着するのであります。押しなべて勝つための素早き剣捌きを強要しているのです。
幼少期の初心者ごとき者にまで剣技と早業とを重ね合わせている有様なのであります。速く打つことがそんなに大事なのでしょうか。
剣道の大家を自称される先生方に是非ともお聞きしたいところです。
おそらく天国の小川忠太郎先生も苦笑為されていられることでしょう。
「剣の道」とか「剣の心」という日本国に根付いた「武士道精神」がまったくと言ってよいほどに蔑ろにされてしまっておりはしませんか。
その残滓としての「日本的ガンバリズム」や「ど根性論」が一人歩きしているだけなのではありませんか。
寂しい事ながら、日本剣道は欧米的なスポーツへと変化してしまったのです。より楽しくよりスリーリングなスポーツ化の道を辿っているのです。
に反して彼の欧米人はスポーツの精神化に挑み、赫灼たる武道化を成し遂げてしまっているではないでしょうか。
新渡戸稲造の「武士道」が今もってロングセラーとして持てはやされているのであります。
それ故にこそ、否それなるが故に、せめて此の静座の場面ぐらいは真摯に真面目に取り組まねばならないのじゃなかろうかとわたしは考えるのです。