下手糞老いぼれ剣士から少年剣士へ《下》

真面目に黙想に取り組み「剣の心」を鍛えましょう


蔑ろにされた武道精神をせめて此の静座の一時によってより戻さねばならないのじゃなかろうかと考えるのです。
極言すれば、それを蘇えさせる唯一の機会であるのだとも言えないでしょうか。
沈思黙考して無言で考えにふけるのではない。益してや、無念の気持ちを強くして次には勝って見せるぞと一人意気こむ事でも決してありません。
負けて悔しい無念の気持ちをこの際胸の中に閉じ込めて忘れてしまうように努めよう。
それでも次から次へと湧き出てくるいろんな雑念を打ち消そうとしても、やはりだめな時には為すに任せて放っておく、何も考えずに気にすることなく、ただ心を静かに休めてみることにしよう。
正座し、へそ前で右手下、左手上にして両親指を接する姿勢で背筋伸ばしあごを引く。
肩の力抜き、歯は軽くかみ合わせ、目は半眼(うす目)にして自分のひざ前90センチ付近をみる。
息つかいは複式呼吸で、半開きの口より、腹を膨らませるようにして息を吸い込む。
しばし息を止めた後、口を閉じたまま静かにゆっくりと小出しにしながら鼻より息を吐き出す。
息を止めゆっくりと吐き出すことは、肺には二酸化炭素が増大し、脳へ供給される酸素量が制限され減少することにより右脳に作用し直観的思考が活発化し生命活動を敏感にしたリラックス感が得られやすいのだと言う。有力な学説らしい。
此の活動的なリラックス感が無心の境地、無の境地の何たるかをわれらに体得させてくれるのだと言う。
稽古が終わったら、心静かに静座をし何にも考えない静かなリラックス感を味わうことが出来れば無心の境地にほんの少しだけでも近付いたことになりはしないでしょうか。
ほんのちょっとした真似事だけでもよい。昔の剣士たちが目指した無の境地に一ミリだけでもよい近づければ万々歳ではないでしょうか。
一ミリの何万分の一だけでもよい。
無の境地は何もないということです。何もないということは自分と言う私がいないと言うことなのです。
自分がいなければ相手もいません。つまり敵がいないことになり勝ったとか負けたとかいったことも意味がなくなってしまうのです。
あまり勝負にこだらわずに、大好きな剣道を通して何か別のものを学び取ればそれでよいのではないでしょうか。
何か別のものはその人その人によって違っていればそれでよいのではないでしょうか。
何か別のものを探すためにも今日の稽古に精一杯汗を流しましょう。
小川忠太郎先生は少なくとも三分間の静座の時間がほしいですねと言っていられたことを思い出しました。