老いぼれへぼ教師の回想記《12》

幅を利かすことに長けたサイベこと中西政雄が水淵家へ婿入りし芳子とめおとと相成った。
とにかく世話好きで世間様に対し如才なく立ち振る舞っていた。地域の学童野球チームを率いて監督業にも専念していた。
ところが政雄は男盛りのさ中に夭逝してしもうた。愛しむべき人材を失ったことになる。少々ギョロ目で歯をむき出しにした満面の笑顔をどうしても忘れられない。
気丈者の芳子は息子と娘のために働いた。ひで華という焼肉店で懸命に生計を支えた。
菊水に地縁の者たちがよく集い寄り合いを持つという情報を知り時折わたしも舌鼓を打ちに行ったりもした。
いまは、白山市の支店へ転勤ということで訪のうことはない。
じつは、先日れんらくを入れて、遠き昔の一連の出来事を公表することに了解を得るべく申し出たところ快く承諾してもらった次第なのです。

五十年前に目撃した衝撃の場面は終生忘れ去ることはない。今日的感覚では想像だにできない出来事でした。
実は、311大震災の直前にベナレス行きツアーをキャンセルしている。余りにも大きな災害だったので当然の判断だった。
それでも、インド、ベナレスの地にて厳粛なる荼毘の場面を生ある中に此のわが目で確認しなくてはならない。
それ以上にわが身自身の身がそのようにありたいものだと願ったりもしている。
分校跡地に立つ木柱のほとりになんとしてでも帰りたいものだ。








野辺の送り

 あの当時には、給食は勿論のこと弁当持参で登校することもなかった。昼飯は各自自宅へ帰り摂るのが慣わしだった。
 深雪が融け始めるのを待ちわびるかのようにして、町中の住人たちは猫の額ほどの田畑ではあったが、かけがえの無い生命の源泉を求めて野を焼き山をも焼いて、そして生業たる炭焼きへと駆り出されていった。いうまでもなく、子供の弁当どころではなかった。
 彼らは家で“ダンソ”と称する雑穀の粉で作ったものを主食としていた。当然のことながらまだまだ日本国そのものが貧しかった時代なのだから十分にうなずける。
 とある陽春のある日、小学生のY子が血相を変えて職員室へ飛び込んできた。何か大声で叫んで入るが聞き取れない。私は夢中でY子の家へ走った。其処で何を見てしまったのか:::
囲炉裏の中に横たわる一人の老婆。既に片方の脚の足首から膝上に掛けて真っ黒に焼け付き完全に炭化しているではないか。ケロイド状になった火脹れの部分もあらわに老婆は我が身に振りかかった情況を運命として終始冷静に観通したかのように無言でうずくまったままだ。
苦痛の色は少しも見受けることなく、むしろ安らかなる顔立ちにすら映った。囲炉裏の火種はもうなかったということは、その間如何程に長い時間の経過があったかを物語る。
 急報を聞いて父さんら家人がそろったが、何ら成す術はなかった。分校側からは、唯一外部との情報交換ができた有線放送で別所の出張所を通して中西県知事より陸上自衛隊のヘリコプターの要請を強く主張し促がしたのだが、後刻Y子の父さんよりその必要がない旨連絡が入った。
致命的な火傷故に厳粛にして荘厳なる決断を下されのか、それとも既に絶命された後だったかは知る由もない。
 次の日、運動場の脇にて荼毘に付された。慎ましやかに野辺送りが執り行われ、間もなく野辺の煙が空に向かって高く舞い上がり、正に見事昇天されたのだった。
 私はその折、授業中の教室にて生徒とともに黙祷を捧げたか否かについての記憶がない。もしや座視するのみの薄情なる教師であったとすれば、これほどの愚かなことはない。何か言葉を発して生徒たちに訴えたであろうとおのれを善意に解釈し、おのれを信じているのだが・・・・
 やがて、太陽が天上に向かうにつれ、一陣の風が舞い立ち中学校の教室の開け放した窓から神々しい贈り物が遠慮会釈なく否応なしに珍入してきた。その折は、さすがに目をば白黒させずにはおれなかった。
その当夜も赤々と火は燃えつづけた。間違いなく昇天なされた。
私はこの目で確認し、そのように信じた。
合掌。                             つづく