下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《12》

青梅錬心館でご活躍なされた故荻野弘先生より頂戴した小川忠太郎述「剣と禅」はわたしの愛蔵本になっている。
此の本のもとを辿れば、明治の初めに鉄舟、海舟、泥舟らが在家の者でも禅を学ぼうと円覚寺の老師をお招きして両忘会なる組織をお作りになった事にあるのだという。
この円覚寺の老師として、まずは今北洪川老師、ついで釈宗演老師・実はこの宗演老師は鈴木大拙の名付け親であるだけではなく大拙が東大で哲学を学ぶ傍ら禅の教えを授けていただいた方で、その後アメリカで大きく開花するきっかけとなられる御方でもある。
さらには、両忘庵老師たる釈宗活老師と立田英山老師へとつづく・・・
そして、このお二人の宗活老師と英山老師こそが小川忠太郎先生が禅の教えを請い求め師事なされた禅の師匠と相成ろう。
然すれば、鈴木大拙小川忠太郎は広い意味での兄弟弟子となりはしまいか。

戦後、両忘会の組織は宗教法人両忘禅協会と改められ、昭和23年には宗教法人人間禅教団として生まれ変わり今日に至っている。
なお、昭和31年の年に人間禅教団の付属団体として宏道会という組織が創設されている。
此処では、剣道と座禅の修行を通じて少年たちの心身を鍛錬し正しい人間形成につなげる任務を担っている。
此の宏道会の師範として小川忠太郎先生が君臨なされた。
宏道会の稽古は、小野派一刀流の組太刀と直心影流の法定の形を中心にして人間形成を厳しく徹底的に追及された。
小川範士は段位を辞退返上なされた。弟子の森島健男も師に倣い九段を返上された。
惜しむらくは、北陸の地には人間禅教団の支部組織がない。口惜しい限りだ。






小川忠太郎は夕雲をどのように観察し評価したか(1)

 昭和六十年発行の「剣道日本」三月号と同年八月に人間禅叢書第八編として著わされた小編「剣と禅」の中に、小川忠太郎範士の次のような記述が窺がわれるのである。
 剣の道は、生死を賭けた命の遣り取りに他ならず、言うまでもなく己が生き延びることを大前提にしているのだという。
 ただ、剣術という一武術を剣の道という高尚なる武道へ大きく変質し昇華させるには、其処に介在する勝負の世界を、決して弱肉強食という単純なる生存競争だけで捉えるものではないのだと強調される。
 相手と自分、敵と我という間柄で激しく敵対しながらも、相互に相手を認め合う彼我一体の境地にまで到達せねばならない。
 そのためには、並大抵の修養ではすまないことだろう。
稽古三昧に明け暮れ、必死の相討ち稽古に終始しながら、邪まな我が身の欲望を切り捨て切り落として、わが身命を全部相手に捧げてしまわねばならない。
このようにして彼我合体の心境にまで達した暁には、お互いに両人共々が相互の人間性を分かち合い、誠の心を認知し合い、慈悲の念に触れ合い、そして惻隠の情に硬く結び付き合うのだという。つづく