下手糞老いぼれ剣士の独り言

伊達直人菅直人


些かどころかずいぶん旧聞に属するエピソードで恐縮だが、四月の初旬の頃菅総理が被災地の瓦礫の中より見出した一個のランドセルをみて、口にした言葉が「これはなんとか直人さんからのものかもしれないね」と冗談をはさんだ記事がありました。
自分と同じ直人なのでナントカ直人といってしまったのか。なぜ、あのご立派な伊達直人さんからのプレゼントの品かもしれないと冗談口ではなく神妙な面立ちで感慨深げに胸のうちを開陳できなかったのか。

一国の宰相として、あの伊達直人現象を前向きに真摯に評価していなかった
何よりの証拠であり、常日頃より民意の代弁者気取りでいたのは表向きだけに過ぎず、やっぱり馬脚を現したではないかと国民から嘲笑されても仕方がない出来事だったのです。

他人様の誹謗中傷は大嫌いだ。極力避けたい。
でも菅さん、あなたたち政治家が為しえなかった「貧の極意」をきわめて「貧の平和」の達人となった伊達直人の妙技を軽んじたり蔑ろにするようなことではまるでお話になりません。

一昨年の真夏の政変は最早どこかへ立ち去りました。
非常に寂しいと思います。多くの善良なる国民もそうだと思います。
たのむよ、菅さん。お願いしますよ、内輪もめをやめて政権交代時の初心に返り日本の国を守り抜いて善い国にしてくださいよ。
いま、あなたの置かれている立場で、今あなたにしか出来得ない思い切った事を成し遂げてほしいのです。
歴史に残る名宰相といわれるためには、もうあれしかないと思うのですが・・・



伊達直人菅直人

鈴木大拙は貧を説く、「貧の極意」といい「貧の平和」とも言う。
貧に在らざる冨なる人、富める人は失っても取り返しの付く「物」を持っている。
故に「物」を見る目はあるが「人」を見る目がない。
処が貧しい人は「物」を持ってはいない。それ故に「物」を見る目はないが「人」を見る目はあるのである。
つまり、「人」の中身や価値を看取し察知する目を持っているということである。
 茶席の禅語に「山鳥歌聲滑(さんちょうかせいなめらか)」がある。大拙はその一節である“~寥寥たる天地の間 独り立ちて  
何をか極めんと望む~“を引用して、平和を極めんと望むならば「貧の極意」の境地にて貧者は貧者らしく貧者の全人格を駆使して激しく雄雄しく戦い戦い抜いて独り立ちして後、始めて得られるのであると力説する。
 だから、冨なる者が怠惰で放任な安逸な心でもって平和を極めることは出来ようはずがないのだという。
そこには懶(らん)惰と無為なる存在があるだけで最も嫌悪すべきものなのだと、鈴木大拙は禅の教えの厳しさを凄まじく強調する。
寥寥たる荒野にて、己の生命と名利とを空しくして只独り奮然として戦い抜き、激戦の果て手に入れた安穏でのどかな和平なのである。
貧なるがこそ生じえた平和であり、其処には明白なる「自己犠牲」と「無私」の観念が息づいている。
タイガーマスクの主人公、伊達直人はまさに「貧の極意」を象徴する存在に他ならない。
擬似直人が燎原の火の如く日本列島に拡散し再生産されていった。
政治が悪いからか、宗教が無頓着だからか存知得ぬ事柄ではあるが、既成の政治概念や宗教概念を木っ端微塵に打破し尽くし、これらを凌駕する得体知れない第三極的勢力が忽然と出現した事を意味してはいまいか。
紛れもなく、巨億の裏金が暗躍する暗黒の政界では権力争いと言う内紛に終始し、国民の多くは辟易としている。うんざりした思いで目を伏せているではないか。
葬式仏教と化した宗教界の体たらく振りに、国民の多くは諦観しているだけではないか。
疎んぜられ、蔑ろにされ掃き溜めのように押し込められた児童養護施設の中の幼気らしき住人たちに真の安穏とのどかで暖かき愛情をもろに注いでくれたのが伊達直人の名に隠れたより善き善人たちであったのだ。
先生と呼ばれる政治家もお坊さんと呼ばれる宗教家も面子丸つぶれなのである。
「貧の極意」を極め「貧の平和」の達人さん、ありがとう、感謝しますよ。お達者で活躍あれ。