老いぼれの独り言

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此の鶴来の町には何故かしらある種の郷愁を覚える。
今この齢にして獅子吼眼下の弓場にて片時の憩いの場をもてあそぶのです。
後高颪が吹き荒ぶかと思えば春かすみにすっぽり蔽いかぶさった穏やかな日もある。
あれからもう既に半世紀以上の歳月が流れてしまった。
小原町から入る「したみち」には随所に雪崩の難所が在って後高越えの「うえみち」をよく用いたものだった。
内川上流の通称「後谷」にあった菊水町の学び舎に待つ子らのもとへ馳せ参じたのでした。
月曜日の早朝には鶴来町八幡駅に集結しゴンドラに乗って山頂駅に登った。
防寒具に身を包み背中にはみな夫々登山用の大きなリュックを背負った。
教材教具と云うよりその大部分は一週間分の食糧と生活用品であった。
当時には暖冬と称する気象用語は何処にも存在せず遠慮会釈なく深雪が降り積もっていた。
対馬暖流の湿気をふんだんに含んだ洋上の空気はシベリヤからの北西季節風に乗りもろに白山連峰にぶち当たり未曾有の積雪をもたらす。
後高山を「獅子吼」と呼ぶ由縁が此処に在る。
「カンジキ」なくしては一歩たりとも前へは進めない。
恐らく、吹き溜まりには十メートル以上もあったろうか、奥獅子吼を迂回して後高山を一路下山し出勤業務は終了する。
校庭には子らのはっしゃぐ声が木魂しとことを昨日の如くおもい出す。
ただ、それにしても子どもたちには大変申し訳なく思ったが午後の授業は見送ることが多かった。
 
「あらみち」を先頭に立って切り開かれた一行のリーダー格の末岡敬正先生は既に他界なされてしまわれた。
鶴来町の弓場で「足踏み」をする度に此の昔のことが甦るのです。