津田家のルーツを辿る≪7≫

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 7 金太郎と清三郎父子にまつわる驚くべき人脈とそのコネクションの彩りには只々唖然と致すだけだ。
 此の両名こそは只ならぬ人物であった事を物語るのです。
 
凡そ推測したこととはいえ、大変大きな史実の一端を窺がわせるに足る貴重なる碑文であることを再確認した次第である。
 わが母方直系のご先祖津田一幽近光家第五代目当主である津田金太郎近義とその正室の墓石を建立するに当たり、金太郎の嫡男津田家六代目を継ぐ津田清三郎近猷が細々( こまごま)とわが母親の出処や由来を碑文に託して今日に留めたことになる。
 実に不甲斐なくも、その一族の末端に位置する者が二十一世紀のこの時期まで不問に付したまま放置致したことは返す返すも不埒( ふらち)なことでありました。
 衷心より津田家ご先祖にお詫び申したい。
原文
【先妣本姓柘植氏故馬廻組三左衛門君第二
女也故馬廻組頭津田左近右衛門君養為女
以文化巳己十二月來帰千先考安政乙卯三
月七日没享年五十有八】
口語訳
  【金太郎の妻、つまり清三郎の母は安政乙卯二年三月七日に享年五十八歳にて没した。
 戒名は、研壽院妙真日清大姉 
 私の母は、津田左近衛門正隣の弟に当たるお方が柘植家の養子となり名前を柘植三左衛門と代えられました。
 その三左衛門の次女に当たるお方が兄左近衛門正隣の家の養女に文化己巳(文化6年=1809年)12月にまた戻られた。
その養女に当たるお方が津田金太郎近義の下に嫁いだということになる。
 私の母はこのようなお方なのです。】
 
津田左近衛門正隣の弟三左衛門が柘植數馬家の分家筋に当たる柘植一平太信守の養子になり柘植家本家第8代目を継いだ旨諸士系譜には記載される。
遺地自地合せ350石取りの平士で組外( くみはずれ)であったがのち御馬廻に属した。
この三左衛門の次女が金太郎近義の妻に当たる方で清三郎近猷と音五郎には母親となろう。
なお、初代柘植數馬は岐阜城織田秀信(別称を岐阜中納言)に仕え、後利常にも仕えた一千石の武将で寛永4年(1627年)に死去している。
秀信は織田信長の長男信忠の嫡男にあたる。
 
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