老いのひとこと

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これは仮説にすぎない、「津田近三」の実父は「津田清三郎近猶」で祖父は「津田金太郎近義」というお方になり、片や養父は「津田和三郎近知」で養祖父が「津田平左衛門近英」というお方と相成ります。


養祖父は始めは「和三郎」と称したらしいので「近三」には「和三郎」が二人居ることになる。


この「津田和三郎」のことを図書館で調べてみると明らかに養父よりも遥かに養祖父の方が知名度が高かったことが判ったのです。


その一例を加賀藩史料第11編より紹介する。


 


「政鄰記」には次のような記事があった。


文化4年(1807年)5月7日の出来事として


《前田治脩( はるなが)の表小将等 能役者のツレたるべき命を拒みしを以て指扣 ( さしひかえ )命ぜらる


 


五月七日 左の通り 被仰付(仰せ付けられた)。


 


是者 前月24日 於金谷御殿 御慰御能 有之候節、橋弁慶シテ 波吉宮門( なみよしくもん) 相勤候に付 左之人々


?ツレ被仰付候處(仰せ付けられそうろうところ)、


宮門等 之ツレ 難仕由に而、 何れも御断申上候處、 左候ば 帰宅可旨 被仰出。


 


依而(よって) 同日より先 自分に指扣 相窺相慎罷在候處


 今七日 左之通被仰出。


 


但、津田和三郎ツレ方不覚申候得共、古く相勤候處、申談方等不行届、却而同意故与云々。


相公(しょうこう)様(13代斎泰 ( なりやす )のこと)御小将配膳役


 


 


相公様不應思召儀有之候に付、急度( きっと) 指扣 ( さしひかえ ) 被仰付。


 


但 六月二十七日此節之儀に付 六人共御咎御免許( おゆるし)


被仰出。


 


津田和三郎


矢野判六


奥田金太夫


九里覚左衛門


森権太夫


堀田良之助


 


此処に云う津田和三郎は養祖父に当たる津田平左衛門近英の方を指す。


 


大まかに意訳すれば、斎泰公の御小将配膳役にあった和三郎ら六名は殿様から能舞台でのツレ役を仰せつかったが難癖を付けて断ったら自宅謹慎を食らってしまった。


でも、六人共その御咎めはお許しくださった。


   


文化4年は先代和三郎28歳にして太梁( たいりょう)公(治脩 ( はるなり )公)の御表小将配膳役にあった。


その後には御先弓頭、御持筒頭、大組頭、御徒頭、天保11年(1840年)には新番頭、小将頭にまで上り詰めている。


加賀藩「諸頭系譜」に名を連ね津田家一族中一番の出世頭と云えよう。


 


津田近三の養父津田和三郎近知は同じく平士500石で嘉永6年(1853年)6月には御馬廻御弓矢奉行にあって同年11月には江戸表詰め最後に退いている。


 


近三にはお父さんの和三郎とお祖父さんの和三郎の2人の和三郎が居てその上にもう一人清三郎近猶からも何かと影響を受けたのでありましょう。


だからこそ津田一族の棟梁的存在に成り得たのでしょうか。