妙典寺の庫裡で紐解いた古き記録簿は実に莫大な量であった。
だからペラペラと捲ったのは極々一部分に過ぎなかろう。
それもあたふたと拾い読みしたにすぎない。
なので充分なる確証は取れてはいないことは否めない。
従って此処に云う和三郎→十之進→近三のラインは何ら実証なき一仮説に過ぎないのです。
津田本家の「和三郎」に実子「十之進」が居たが何かしら分けがあって「近三」が養子に入らざるを得なかった斯くなる仮説を立てることにした。
墓籍上に突然現れた此の新顔「津田十之進」は図書館の資料の中からそのプロフィールの概略は一応浮かび上がって来たのです。
加賀藩平士で500石、「組外( くみはずれ)」に属し生年や死亡年に付いては不詳なのである。
●政鄰記の元治元年9月9日の記述には次のようなことが書いてある。
「山森権太郎以下役儀を除かる」とある。
つまり「加賀元治の変」が起こったことを意味しよう。
世の中が勤王か佐幕かで揺れ動く中次の藩主になるであろう前田慶( まえだよし)寧 ( やす )ははっきり勤王の立場で長州藩とも通じ幕府に建白書を送ったりもした。
生胴や刎首に切腹、流刑、水牢の記録があり最も軽微だった譴責( けんせき)、今でいう戒告には21名の名前が連ねられる。
その中の一人に山森権太郎の名があった。
実は此の山森権太郎の配下にいた津田十之進他3名もお咎めを受けることになるのです。
●同じく政鄰記の明治元年7月8日の記述は次のようです。
「隊長津田権五郎、家老次列今枝民部、家老津田玄蕃の隊並びに越後に達す」と書いてある。
その代わりに前田慶( まえだよし)寧 ( やす )は北越の鎮撫の為に7600名の津田玄蕃隊を官軍として送った。
柏崎と長岡を主戦場にして桑名藩や長岡藩を相手に戦闘を繰り広げたという。
その中にあって最も小人数の小隊ながらも津田十之進近明は二十人の部兵を引き連れ参戦している。
長岡城下の福山の地に陣地を敷き斥候等の役務を果たしたという。
7月9日 新道口津田近明十之進
一小隊 在福山
と記載がある。
●明治2年 金沢藩平 品川駅附近を巡邏するも
交代を命ぜられる。
隊長等交代名左の通り
小隊長 原余所太郎 津田十之進
十之進のその後の足取りは現段階では全く分からないのである。
此の十之進は歴史上実在した人物には違いないが和三郎の実子の確証はないのである。
これは只単なる仮説に基づく推論にすぎぬことを断らねばなりません。