早とちりでは済まされません。
誤りは誤りで訂正いたさねばなるまい。
曖昧な読解力、読解力の無さの為せるわざでしょう。
事実誤認は許されません、直すべきは直すべしと然るべき筋からご指摘を受けました。
明治2年の年に津田十之進近明は降格人事で左遷の辞令を受けたとの主旨で昨日は書きましたがこれは誤りでした。
実のところ政鄰記には
明治2年7月
「金沢藩兵、品川駅付近を巡邏するもの交代を命ぜられる。
先達て六郷川より品川駅までの間巡邏取締まり仰せ付けられ候に付、彼の筋へ張り出し罷り在り候
杉本美和介隊と交代の為、此の節隊長箕輪知太夫組共為致交代張出候
此の段お届け申し上げ候
中隊長 箕輪知太夫
小隊長 原余所太郎 津田十之進」 以上
なので左遷ではなく、逆に小隊長に任命されたという朗報を意味することになるのです。
處がどうしたことか僅か二か月後の明治2年9月8日の記述で
「金沢藩の品川、小石川、牛込等を巡邏するもの交代を命ぜられる」
とあって其処からは津田十之進の名前は忽然と消え去りその後二度と再びその名を見ることは敵わなくなるのです。
7月から9月までの二か月間に何かしらアンラッキーなアクシデントが津田十之進の身辺に降り注いだのではあるまいか。
わけも分からず只々老婆心だけが騒ぐ。
まさかとは思うが在ってはならぬ事ながら血気盛んな狙撃手であったがゆえに猶の事此の十之進が不本意ながらも不祥事に関与いたす羽目に陥ったのではあるまいか。
津田政鄰にしては同じ一族でもある十之進に関わる負の記述は躊躇ってもおかしくはない。
それで、金大の中央図書館を訪うて「成瀬正居日記」の閲覧を所望したが何分マイクロフイルムにデーター化されていておまけに崩し字古文書はでは十之進の文字面さえ明盲同然にしてこれ程の悲嘆はない。
それこそ昼夜を厭わず目を皿にして画面の文字と格闘いたさねばなりますまい。
それ程に情熱を注ぎ込む労作に耐え得る気力も体力も況してや両目の視力は最早限界に達してしまいました。
この際、潔く和三郎→十之進→近三のライン追及の労を断念することに決めました。
舟田さんお力添えいただきありがとうございました。お疲れ様でした、残念会で締め括りましょう。