老いのひとこと

イメージ 1




歴史を検証する力のないものが只々適当に我流の仮説を弄んでいる。


津田家本家を辿れば和三郎には十之進がいて後を継いだ。


此の本家筋にはどちらかと云えば武芸に長じた人物が見える。


初代和三郎こと津田平左衛門近英は御小将頭までなっているが御先弓頭( おさきゆみがしら)御持筒頭 ( おもちつつがしら )の経歴がある。


従って嗣子たる十之進が祖父に見習い同じ道を歩んでも不思議ではない。


金沢大学の板垣英治先生の「加賀藩の火薬」なる論文を拝借致せば「成瀬正居( まさすえ)日記」を引用しながら津田十之進近明について若干触れられているのです。


即ち、成瀬正居( まさすえ)の配下にいた十之進は今で云う改造銃の発案であって雷粉筋入異風筒 ( らいふんすじいりいふうつつ )なる鉄砲を考案し元治元年から慶応元年にかけて15回ほど普正寺浜にて試射するに及んだのだというのです


射人は8名で30から40歳代の若き銃卒たちであったのだという。


だから、それ故にこそ明治元年には北越戦争に十之進は銃卒20名を引率し越後の長岡に参戦し福山の地に陣地を張ったのだというのです。


十之進は武芸取り分け銃射撃の名手であった。


處が、戦役が終わった翌明治2年にはどうしたことか隊長交代の左遷人事が発令されるのです。


政鄰記に従えば「…品川駅を巡邏するもの交代を命ぜられる。


隊長等交代名左之通り


小隊長 原余所太郎  津田十之進」


失脚するに足る如何なる不祥事が十之進の身に注いだかは詮索する術はない。


若しあるとすれば、十之進の上司に当たる成瀬正居氏の日記を金沢大学の付属図書館にて紐解く以外手はない。


津田本家へは分家より津田近三が養子として送られお家断絶は一応免れた。


近三は金沢の穴水町の2番丁2番地に住を給わり昭和の初期のころまで居住したとの不確認情報を北山弓具店さんより戴いてはいる。


勿論、外喜雄とか十郎兵衛近久は確認の仕様がない。


東京方面へ移住為されたとの風評も耳にする。


歴史的会見にて盃を交わすことほゞ九分九厘敵わず。