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何ら揺ぎ無き根拠を示すことなく単なる憶測推論を駆使してみても始まらない。
此れは単なる言葉遊びに過ぎなかろう。
津田本家のお家断絶の危機を救ったのが今枝要人に違いはない。
喜平太近義の嫡男平太夫が本家4代目を継いだが敢え無く夭逝する。
父喜平太は急きょ今枝家より要人を養子に迎える。
5代目要人は喜平太と同年輩の熟年54歳であったが平太夫の若き連添いを嫁に迎え平左衛門近英を儲ける。
6代目近英は一族の出世頭らしく12代藩主斎泰公の配膳役から御小姓頭に昇り詰めたほどの人物だった。
近英の嫡子和三郎近知が津田本家7代目を継いだのだが近知には子がなく養子を迎えざるを得なかった。
此の養子が津田十之進近明であったが皆目素性が判らない人物になる。
津田家一族のものには違いはないが此れもやはり清三郎近猷の申し子としか考えが及ばない。
恐らく後妻治の実子に違いなかろう。
清三郎の倅として近三、伴四郎、近吾、十之進の異母4兄弟を推定したのです。。
此の十之進は明治元年には北越戦争に部下20名を率いて参戦し明治2年には東京の品川で巡邏として存在した公式記録が現存するのだが其れ以降の足取りが途絶え消息を絶ってしまった。
明治維新の激動の中、何らかの事故事件に巻き込まれたに相違ない。
養父和三郎近知は次なる養子に津田近三をあてがった。
近三の養父和三郎こと津田半山は明治7年に病没し、更に近三自体も明治22年に此の世を去り実質津田家本家は滅び去った。
此の近三は石川県警の前身その礎になる警察制度の形成に大いに貢献した一人に違いない。
明治22年に没し妙典寺に葬られるのです。