老いのひとこと㊸

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             無断掲載

知友ふなださんから又々珍奇なる情報が飛び込む。

実に大したものです、成瀬日記を紐解けば成瀬正居と事もあろうに津田清三郎近猷や津田和三郎近英並びに其の嗣子津田近三の三名が何らかの形で相互に関わり合う間柄であることを示唆してくださった。

関係者にすれば胸をときめかせるに足る一大発見になりましょう。

ただ不本意ながらも此のわたくしは古文書を解読するだけの技量に乏しく全容を解き明かすには至らなかったがその内何れかの御ときには詳らかに致さねばなりますまい。

成瀬正居(まさすえ)は文政11年(1828)から明治35年(1902)まで生きた稀に見る武人で在り且つ又文人であって全知全能のスーパーマンで在られた。

正居は安政元年に父正敦より跡目相続し知行高2500石の人持組に属した人になる。

定火消役や壮猷館長官、晩年は白山比咩神社神官を相務めたと云う。

何よりも壮猷館時代に津田近三こと十之進が正居より直々に鉄砲術を授かった事実が在る。

 

正居が明倫堂で学問に励む15歳より74歳の死の直前まで克明に日記を書き留め此れを「成瀬日記」として世に残した。

 

趣を異にするが加賀藩内の出来事を克明に綴った公文書記録「政鄰記」と相通じることにふと気付いた。

 

豈図らんや此の「政鄰記」と「成瀬日記」が奇しくも連結する事態に発展したから驚きだ。

実は津田玄蕃家9代目正矩(まさのり)は正室を世継ぎ懐妊中に失い、10代目に津田正隣の子正直を養子に入れて継がせた。

処が此の正直も夭逝し、此処に津田清三郎の弟音五郎が養子となり11代目を継いだ経緯が在る。

其の事の発端、世継ぎ懐妊中に他界したのが他でもない成瀬の娘と判明したのです。

年代を照合すれば正居13歳時の娘となり此ればかりは符合いたす筈がない。

此処に至れば成瀬家の由緒書を閲覧するしかない。

県立図書館収集文書より成瀬家文書

NO.96正居の手により成瀬家由緒抜き書を急遽参照致さねばならない。

 

正居・正隣・正隣の子正直・清三郎の弟音五郎・近三・近三の養父和三郎の人脈。

此の人脈が物の見事に数珠玉のように繋がり鎖のように連結した。

娑婆は広いようで結構狭くもある。