老いのひとこと

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羽咋の歴史民俗資料館を目指す、のと里山海道に乗ると何日振りかに日本海の大海原が目に入る。


幾ら歪な人間に対してでも分け隔てなく広い広い寛容の海は何の躊躇いもなくわたしを迎い入れてくれる。


只それだけで感涙が込み上げる。


これも自然の生業の為せるわざ明らかに歳のせいに決まっている。


白波が騒いでいるがわたしには笑って手招いているしか見えない。


夏休み初っ端のお子様向きイヴェント「弥生土器つくり体験フェステバル」に遠路はるばるジッサマが一人応募いたしました。


其処を寛大な措置で迎え入れてくれた関係者の方々にはやはり頭が下がる。


歳をとり過ぎるとお子様並みに取り扱われることを知りました。


定員20人の工房内は同伴する若きお父さんやお母さんたちで取り巻かれえらく盛況だ。


さすが子どもたちは柔軟で自由な発想から手際よく捏ねては積み上げる。


こちらはあれこれ思いあぐね漸く高坏( たかつき)たどり着く。


神棚と仏壇兼用の祭器となりましょう。


土鈴に骨壺、お供え物は此の高坏にしょう。


次は木魚ならぬ土魚を作ってみようと突然意欲がわく。


先ずは坏の部分を手掛けるが粘土が柔らかくて粘着性を欠いているせいかなかなか厄介だ。


でも為せば成るの固い信念でまさに一心不乱。


次いで高台に取り掛かるが流れるような曲線美を再現しようとするが2000年むかしの弥生人の感性には敵いっこない遠く及ぶはずもなし。


何が進化だ、退化の程も甚だしい恥ずかしいやら情けないやら、それにしても何とも得難き体験を戴いたものだ。


此の上なく楽しい充実の一時でした。


子どもたちはみな夫々自分の自慢の作の前でにこやかに記念写真に興じている。


修了式も執り行われたが黙々と格闘するわたしだけが取り残されてしまいました。


高台の上に坏の部分を固定させねばならぬが載せれば崩れるは必至、思い悩んでいると資料館の先生は


こちらに一任されるようならばの助け舟に大いに救われたのです。


羽咋まで通う気力は残念だが持ち合わせなかった。


一切お任せ致しますのでよろしくお願い申しますと頭を深々と下げました。


8月27日の野焼きの日には必ずや参上いたしますともう一度深々とお礼を申し述べ家路についた。