老いのひとこと

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痛くはないかと云われればやはり痛い。


痩せ我慢をして何になると云われればその通りで家で炬燵に潜り渋茶をすすりながらテレビでも見て居れば良いものをそれが出来ない。


この寒いさ中によたよたとお年寄りがお独り広い館内をうろつき回る。


決して見映えのいいものではない。


それも恰好のいいアデダス製のシューズやトレーナーならいざ知らず外ならぬ我が愛用の福助製の黒足袋着用だから笑いものだ。


傍の目にはお構いなしにひたすら走るようにおたおたと体をくねらせる。


痛くないと云えば噓になる、痛いのを痛くないような表情でカムフラージュする。


ところがそうして誤魔化している内にふわーとその痛みが和やらぎ消えている時がある。


そんなに長くはつづかないがわたしは好い快感を味わう。


神仏から授けられたご褒美だと有り難く頂戴する。


痛さから解放されたい願いが恰も煩悩から解き放たれたかのように錯覚してしまう。


また、ある一時には痛さだけではなく我が身が今走っていること自体が意識の外に置かれてしまう。


つまり、我が居なくなり忘我の境地、没我の域を暫し彷徨う。


口幅ったい言いぐさではあるがわたしはわたしなりに此れを走ることが禅ではなかろうかと出来損ないの木偶の坊は敢えて「走禅」と名付けている。


ほんの一時でも良いから色んな煩悩から遁れたい一心でよたよた今日も走る。