老いのひとこと

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偶数木曜は教養講座の日です、なぜかしらお坊さんのお説教に魅せられて相集うのです。


十人足らずの皆さん方はみな夫々信心深き御方らしく正信偈を唱和される。


口を開かぬはどこのどいつ位はお坊さんにはお見通しのことでありましょう。


口をもぐもぐ動かす素振りをして誤魔化す不届き者が一人いるのです。


とても有り難いお話でその有り難さが極点に達しようと致せばわが身を身震いさせて正気を取り戻さねばなりません。


有り難い気持になるのはそれなりに耳を確と傾けている証とも云えよう。


今日のお話の中から何か一つの収穫を掴んで帰りたい。


為になるお話を一つだけでよい、聞き漏らすまいと耳をそばたてしょぼくれた目を見開く。


 


お坊さんが熊本へ災害救助にボランテアに入られた体験談の中で「いっその事自分も土石と共に流された方が益しだ」と口にする被災民の切なるお声を聞いたという。


奥深い寒村での話であるという。


家屋敷諸共家族を悉く失い生きる糧を全て失った農夫が口にした絶望の果ての呻き声だったという。


お坊さんは云う、このようなどん底に陥った人を救うのが阿弥陀の教えだという。


阿弥陀の教えはこのような人たちに生きる勇気と生きるための知恵を授けてくれるのだと話を結ばれました。


ただ南無阿弥陀仏と念仏を唱えるだけでは救われないのだとおっしゃる。


要はやはり阿弥陀の教えを信じ切らねば救われることはなさそうにわたしには思えた。


こんなお話であってでも大満足です。


今日はとても為になる好い話を聞いたことになる。


今日はとても好い一日であったのです。


有り難い気持にほんの少しだけ為れました。


 


それとなく何となく阿弥陀の教えの何たるか少し解かったような気がしないわけでも
ないのです。