老いのひとこと

母は昭和18年1月に弟利治を出産後に奉職中の小学校を最後に退職したことはよく知ることだが果たして何処に勤務していたものか其れが全く分からないのだ。

 

此の歳になって不覚を執ったと幾ら嘆いたとて始まる訳でもないのだが泉野図書館で資料を漁ったし玉川で訊ねてもやはり見当たらなかった。

母の妹に当たる村本三枝が味噌蔵小学校に在学した折にわたしの母が教育実習生として顔を出したのには驚き果てたとの思い出話を良く聞かされたものだ。

 

母津田としは大正14年に第二高女を卒業し昭和18年に退職するまでの遍歴した勤務校を知る術はとうとうなかった。

とても残念だった。

 

父と母は今流の出来ちゃった婚でわたしが出生した昭和10年に入籍しその前後に産前産後の有給休暇を取得しているはずだろう、1922年には文部省令で女教師の産休が保障されたのだと云う。

昭和12年に鉄二と三度の産休で何かしら気まずかったのだろうか母は35歳の若さで早期退職したことになる。

 

手に負えないドラ息子で母には只ならぬ迷惑の掛けっ放し進学の折にも気まずい心労をお掛けしました。

せめて京都見物にお連れしたいものだと思う矢先に母は病魔骨肉腫を患い敢え無くも47歳にして夭逝してしまった、あの時には天を仰いで慟哭した。

 

泉野で「県立金沢第二高女史―真清水の心」を閲覧し往時の様子を垣間見た次第、いずれ天国に参りますれば母の女学校時代の思い出話でも聞かせて貰うことに致しましょう。

憧れの東京への修学旅行のことやはかま姿で倉が岳へ登った時のお話を是非とも聞かせてくださいませ。

お願い申します、お母上さま。