老いぼれへぼ教師の回想記《4》

「内川の郷土史」912、913ページに掲載される菊の写真は当該史の執筆者でもいられた金沢大学薬学部の木村久吉先生の説に従えばリュウノウギク(竜脳菊)であるとのことであった。
当時、金沢大学理学部教授でいられた熊野先生に鑑定依頼した結果得たのは紛れもなくノジギク(野路菊)であった。
いずれにしろ数多ある野菊の一種には違いなくわたし如き素人目には大差はないことなのだ。
ただ、このノジギク(野路菊)の命名者は外でもない彼の著名なる牧野富太郎博士なのだという。
だから、どちらでも構わないというのは非常に非常識な無礼者の言うことになることになるのです。
菊水の菊よ、こよなく何時何時までも繁茂しろ。


菊水の菊

 生徒たちから、突如として緊急提案が出された。菊水の町名の由来となった、十六枚の花弁からなる野生の自生菊を探訪がてら採集しに行くのだと言う。皇室ゆかりの菊の紋章と同じだとすれば、確かに好奇心をくすぐる。
 町の古老たちは、口々に子どもたちへ語った。真偽の程を確かめる術もなく、それでも、このことが専らもちっきりで、学校中の話題となっていたのも確かだ。 
 新緑まばゆい、そんなある日、この話が湧き出た。盛夏の頃はもとより、開花時期の秋には、山々の草木が繁茂し、行く手をさえぎるだろう。猛烈なるブッシュにて難渋するは必至のこと、この時期を逃しては、目的地へ辿り着くのは難しいとの大方の意見がまとまり、私の口より『明日の授業は取り止め、急遽春の遠足を兼ねて、菊水の菊を目指そう』と宣告した。歓呼のときの声が暫し鳴り止まなかった。 そして、予備知識を得るべく、地形図を携えて、古老たちよりその地点を入念に確認したのだった。
 道先案内の好意を体良く辞退し、自分たちだけで出発した。勿論、参加者は中学生のみで引率したのは私一人だった。今にして思えば、背筋が寒くなる。
小一時間ほどして、通称二又地点にて内川は東谷と西谷に分岐するが、西谷を遡る。黙々と、十数キロは登りつめただろうか、もう道はない。滑り落ちた巨岩が幾重にも重なり合う急峻な谷川を這うようにして登り渡ってはまた登る。只ひたすら源流を目指す。
 そこは、山歩きに慣れ親しんだ彼らとて、何ら心遣いはいらない。もっとも、マムシにだけは細心の神経を払った。
 既に、ここまで来れば炭焼きにすら村人たちが足を踏み入れる場所ではない。正に、人跡未踏の地といっても過言でない。
 あえぎ喘ぎの沢登りが延々と続く。昼食を摂って、間もない頃いよいよ急峻な渓谷を登りつめると、眼前に、突然巨大な岩盤が立ち塞がった。
 ついに、辿り着いた。三ノ輪山の頂きが手の届くところに迫る。古老たちの話は実証された。
 岩盤の肌は油を敷いたように薄く清水で濡れている。一斉に、皆がよじ登る。『あったぞおー。菊だあー』サイベの政の叫び声が、山々の峰に木魂した。葉の形からして菊には違いはない。早速、数株ほど丁重に根毛もろとも採集し、大切に持ち帰った。
 あたかも、凱旋将校のように意気揚々と帰校した。若しや、新種の類ならば私の名前にちなんだ命名もあろう。ともかく、金大理学部へ持ち込み、熊野教授に鑑定を依頼した。
 後日談ながら、判定を秋まで待っての結果は、そこらの路傍にごく普通に見かける野路菊の一種であろうとのこと、随分落胆したことを思い出す。ただ合点の行かぬことは町名由来の野生菊はいったいどこへ行ったのか。先述の『内川の郷土史』には写真入りで掲載されていたのはいったい何だったのか。果たして虚偽かそれともはったりなのか。
 でも、一つのことを貫徹した心地よい成就感の余韻が後々まで残ったのは私一人だけだったのだろうか。

サイベの政の声が澄み切った山間の谷間に木魂している。                   つづく