下手糞老いぼれ剣士のルーツ《4》

わたしのご先祖さまが弱小なる戦国大名とはいえ其の家老職にあったとは、些かどころか大した驚きの感を禁じ得ない。
本来なら、今少し詳細にその間の事情を究明して然るべきとは存じる次第だが
何分探究心薄弱で素養もない身、おまけに体力気力も萎えて如何ともし難き次第なり。
後世における特異な人物の輩出を乞い願う次第なり。



 先に述べた伊藤家の傍系の子孫であられる岐阜県南濃町ご在住の伊藤善夫氏へも同様の問い合わせをいたしたところ由緒書『伊藤家沿革志』には源左衛門・覚兵衛両名の記述は見当たらなかったとの丁重なる返答を戴いている。
 蛇足ながら申し添えると大永二年(一五二二年)に美濃国の高須城を築城したという大橋源左衛門と称する同姓同名の人物がいて、あるいはもしかしてこの人物と係わりがありはしまいかと岐阜県海津町にある海津民族歴史資料館へ照会してみましたが思惑通りにはいかなかった。年代的にも地理的にも接近していたので淡い期待を寄せた次第ながら徒労に終わった。
 九世の祖母は美濃国武家の娘であったらしいが名前も生年もわからない。没年は慶安五年(一六五二年)とある。大橋源左衛門の嫡子である大橋覚兵衛が後を継いだ。


八世の祖父・祖母

 八世の祖父の名は大橋覚兵衛という。高橋家に伝わる由緒書には覚兵衛についての記述は次の通りである。
 原文を掲げると次のようになる。
「覚兵衛義源左衛門尉嫡子ニ御座候処 亡父遺知無ニ相違一給相勤」と記載されるだけなのである。
 これを直訳すれば、「覚兵衛に関することについては源左衛門の尉(じょう)の嫡子に御座候ところ、亡き父の遺産を承知して給わったことに間違いなく、そのように相勤めます」となる。
 それを簡略に意訳すれば、覚兵衛は源左衛門の嫡子であり、亡き父の遺産を間違いなく給わった。宝永五年(一七〇八年)に病死仕り候。これだけである。
むしろ、伊藤達家の由緒書の方に具体的な記述があったではないか。図書頭と行動を共とし安芸にあっては少々の知行があったこと、そして金沢に来たときには覚兵衛に親類のたぐいがあったとさえ書かれている。
それには理由が二つ考えられる。先ず一つは、主君伊藤図書頭利吉への配慮である。何といっても主君は逃避行の身であるので由緒書という公式文書に主君の名をあからさまにすることは許されるはずがない。況してや、当時は図書頭自体は切腹し果てこの世に存しない身である。言わずもがなである。当然過ぎることなのだ。
仮にこの由緒書が前田家へ差し出されるにしても、外様大名の雄藩ならば江戸幕府の監視の目を意識しないはずがない。そこまで配慮せざるを得なかった。
この高橋家の由緒書の作成者はわれらが五世の祖父にあたる大橋喜ヱ左衛門で文政八年(一八二五年)の日付で時代的にはおよそ二百年の年月の経過があるが、少なくとも大垣城主伊藤彦兵衛盛正の死亡説が定着している以上、覚兵衛に係わる記載で如何にささやかなエピソートであっても御法度であった。
もう一つは、覚兵衛には実子がいなかった。後を継ぐ嫡子がいなかった。大きな弱味であり負目であった。この覚兵衛もこの時代にしては随分長生きしている。
八世の祖母についても由緒御座無き候とだけで没年は宝永六年(一七〇九年)である。
覚兵衛は実弟の中村伊兵衛を養子として迎えた。         つづく