下手糞老いぼれ剣士のルーツ《9》

曲がりなりにも、大橋源左衛門から大橋金之丞まで続いた大橋家の血統が、吾らが高橋家に引き継がれた。
かろうじて辿りついた感がしないでもないが、その矢先に吾らが金之丞には不運にも実子に恵まれることが無かった。
この足軽風情とは言えどもお家断絶の憂き目に直面した一大危機に際し、吾らが高橋家に救いの手を貸してくれたのが外でもない松井政之丞なる人物であった。
 高が、切米二十俵の足軽家を生き返らせてくれたのが松井政之丞なる人物であったのだ。わたしにしてみれば”ひいじい様”に違わない。


 なお、金之丞が弘化三年(1846年)に作成せし由緒書きにはこの高橋家の血統について仔細に渡り詳述されている。
 代々に渡り婿養子を迎えねばならなかった事情がよくわかる。

 ただ、歴史の不条理とは言えども戦国時代の武将大橋源左衛門とはDNAの繋がりが途絶えていることは現実の厳しさを痛感せざるを得ない。
 しかし、幾代に渡り継承された当家の由緒書きの筆頭者に位置すのが紛れも無くこの大橋源左衛門である以上、この人物の気風や気概が代々受け継がれ今日に至っているは必至なのである。





実子のいない高橋金之丞は、金沢の材木町油屋に住んだ松井茂右衛門の三男であった松井政之丞を養子として迎え入れたのである。この松井政之丞がわれらが曽祖父と相成るわけだ。
 なお、金之丞が養子入りした高橋家の血筋は代々に亘り男子の子宝に恵まれることから見放される格好で続くのである。つまり、婿養子を取らざるを得ない不都合がなんと五代の世代に亘り続いたのである。金之丞を迎えた吉郎右衛門は河崎惣助の倅であり、吉郎右衛門を迎え入れた高橋多大夫は広岡右内の倅だったという。また、この高橋多大夫を養子として迎え入れた高橋多助は辻武平の倅だった言う。そして、この高橋多助を養子にしたのが高橋嘉太夫であり、嘉太夫は高橋紋兵衛の嫡子であって、この高橋紋兵衛が高橋家の源流となっているのである。
 ここで、高橋家代々の没年を記して置く。高橋吉郎右衛門は文政一年(一八一八年)没、高橋多大夫は天明五年(一七八五年)に没している。更には高橋多助は宝暦五年(一七五五年)に、次いで高橋嘉太夫は延享三年(一七四六年)に亡くなっており、もっともいにしえを辿れば享保七年(一七二二年)高橋紋兵衛がこの世を去っているのである。
 処で、此処に言う高橋家は当代の高橋家とは直接的に血縁の繋がりはないのである。しかし、とは言うものの金之丞が高橋家へ養子入りしたと言う厳粛なる真実は歴史上において素直に肯定しなくてはならないのである。金之丞が高橋家を継承し存続の労をとってくれたのである。金之丞は当家の歴史上における重要なる人物だ。
 高橋金之丞は、大橋家と高橋家の接点と言おうか大橋家と高橋家を融合させる接着剤として特筆すべき人物だと断言しよう。
 手許に高橋金之丞が弘化三年(一八四六年)の三十七歳のときに作成した由緒書の最後の部分に宗旨は一向宗で寺は材木町の善福寺であると記されている。確か五世の祖父大橋喜ヱ左衛門の時代も善福寺であるとすれば、金之丞が養子入りした高橋吉郎衛門家も偶然にも善福寺だったのか、それとも敢えて金之丞が善福寺に改めたものかは定かではないのである。明治四年の失火焼失が痛い。                            つづく