下手糞老いぼれ剣士のルーツ《14》

わたしのヒイジジ様は日蓮宗徒から一向宗徒へやむなく改宗せざるを得なかった。
また、檀那寺をこれまた止む無く善福寺から善行寺へ移さざるを得なかった。ところが明治4年の火災で善福寺が焼失し一切が灰と化した。
 その間の経緯を知る手掛かりをなくしてしまったことはとても残念な事に思えるのである。


曾祖父高橋精路政之丞の形見同然の遺品が数点本家利治家に残されている。
特に政之丞の実家となる松井家は敬虔な日蓮宗徒であれば当然なこととして法華経の経典や解説文献を持参していたにしても不思議ではない。また、政之丞は高橋家へ入籍すれば、これまた当然のこととして一向宗徒へ改宗せざるを得ないわけだ。精路政之丞自身の手で作成された由緒書にも檀那寺は善福寺に御座候と書かれている。
 五世の祖父・大橋喜ヱ左衛門から高祖父・高橋金之丞へ、そして曾祖父・高橋精路政之丞に続く善福寺との代々の繋がりに鑑みて高橋家との関わりを書面にてお尋ね申したところ、善福寺の大桑啓住職より丁重なる返書に与かった。極めて残念ながら、明治四年の失火により過去帳をはじめ門徒帖等を含む一切の当寺所蔵の書類を焼失するに及んだ経緯を知らされ、如何ともし難き結果に終わった次第だ。極めて残念至極なことなのだ。
 幸いなことに田井の善行寺は善福寺の説教所としての道場の一つで末寺のような存在であったらしい。十分に納得できることなのだ。
 先程も述べたように精路政之丞が文久三年に認めた高橋家最後の由緒書にはまだ善福寺と書き表されているが、焼失の明治四年以降の何時かに檀那寺を善行寺に移しているのだ。精路が明治三十九年五月四日に逝去し弔われたのは善行寺であった。
これは善行寺の過去帳にて確認できる。寶香院殿釋精路信士という立派な戒名を得た。
つまり、これは戒名であり決して法名ではないのである。精路は生前には一向宗徒へ宗旨を改めたものの入滅後には法華経への未練断ち切れずに両宗の折衷案に落ち着けたのであろう。恐らく、松井家の意向を酌んだものに違いなかろう