下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《13》

 剣の道を究めると此処まで到達するのでしょうか。
決してフィクションの世界ではないし、想像上の理想郷でもない。
現実に、剣技を純粋培養すれば此処まで到達することを実証した剣客がむかし居たことを小川忠太郎先生は説諭された。
 勝ったとか負けたとか、強いとか弱いとか、一本入ったとか打たれたとか言うが如き次元のレベルから脱却し卒業した暁には、全然別世界が展望されるのだとおっしゃる。
 己を省みずに命を犠牲にしてまでもして全体の利益を誘導する。全体に奉仕し人のため世のために貢献し尽すのが剣道の究極の到達点なのだという。
 ただし、此処で言う最終到達点にいたるには言語に絶する百戦錬磨の苦闘に耐え抜かぬ限り夢幻に終わるのだと言うことも強調された。
 少なくとも此処には「自己犠牲」と「無私」の考えが生きている。


小川忠太郎は夕雲をどのように観察し評価したか(2)


 更に小川範士は、一刀流の「切り落とし」技を引き合いにして、次のように論を進められる。
 言うまでもなく、相討ち技の最たる極意としての「切り落とし」技には五つの段階があるのだという。
その第一、第二の段階は自分だけの自己形成のための修行であって、畢竟勝負にて勝利を果たしわが生命を存えるためだけの、極めて在り来たりの利己的修行の段階であるのに比べ、第三、第四、第五の段階にいたれば自分と共に相手の立場を見透しながら配慮する雅量を高めてゆくための修行に他ならず、この境地にまで行き着かねば本物とはいえないのだという。
自己形成という自分のための修行だけではなく、相手を引き立てることにより一見他者を思ん量るようで決して思ん量ったわけでもなく、それでも結果として他者を含めた周囲の環境を良き方向に高め導く社会貢献の側面を併せ持つのであると指摘される。
わが身命を総べて相手に捧げ任してしまう、言う所の「捨て身」の技に徹して「相討ち」の技が完熟し、更に爛熟の域に達すれば、最早それを「相討ち」とは呼ばず無住心剣流では「相抜け」と名付けたことと相成ろう。
それが一刀流における「切り落とし」の技であれば、柳生新陰流では「まろばし=轉」となり、直心影流での「丸橋」の技に匹敵しよう。
いずれにしろ、己の身を捨て己を空しゅうして、相手を立てることにより延いては全体に奉仕し、社会に貢献する形で総てを昇華させてしまう。