下手糞老いぼれ剣士の独り言(その4)

剣道は「礼に始まり礼に終わる」というのだが


13 もちろん、面を打ったならば“めえーんー”と長く長く伸(の)ばして、そして尻(しり)上(あ)がりの発声(はっせい)を出さねばなりません。全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)で面を打ったのならば、かりに面に当たらなくても発声は出さねばなりません。恥(は)ずかしいことでではありません。上手(じょうず)下手(へた)とは関係(かんけい)ないのです。
  切り返しのときは、大きく正面(しょうめん)を打って体当(たいあ)たり、この時大きく一息(ひといき)吸(す)って後は九本の左右面(さゆうめん)を打ち終え、二回目の体当たりまで息を継(つ)がない一息(ひといき)の切りかえしが出来るようにお稽古を積(つ)まねばなりませんね。
14 何から何まで剣道を知(し)り尽(つ)くした高段者(こうだんしゃ)は、いつの間にか有声(ゆうせい)から無声(むせい)の世界へ入って行かれます。声を出さなくても、剣先(けんせん)に攻めの気勢(きせい)と気合(きあい)がこもっているのです。
  しかし、私たち初心者(しょしんしゃ)は、少なくとも自分自身を修行(しゅぎょう)に追(お)い立てているものならば精一杯(せいいっぱい)・身一杯の発声(はっせい)で相手に禮(れい)を示(しめ)さねばならないのです。無礼なことは許(ゆる)されないのです。
15 何とも古色蒼然(こしょくそうぜん)たる古臭(ふるくさ)いことを申し述べる訳なのだが、日本人の魂(たましい)の叫(さけ)びを今以(いまもっ)て二十一世紀の今日(こんにち)にまで引き継(つ)いでいる武道の勇姿(ゆうし)を日本国の伝統(でんとう)文化(ぶんか)の一つとして次(じ)世(せ)代(だい)へ引き継いでゆかねばならないと思います。
  決して急進的(きゅうしんてき)ではない極(きわ)めて穏健(おんけん)な気概(きがい)としての大和魂(やまとだましい)を、剣道を志(こころざ)す幼き剣士たちにも何とかして根付(ねづ)かせ定(てい)着(ちゃく)させる事が出来ぬものだろうか。幼(おさ)な心の中に自然(しぜん)発生的(はっせいてき)に醸(かも)し出させることは出来ぬものだろうか。

16 片や一方には、何もそんなに堅苦(かたくる)しい礼法(れいほう)や躾(しつけ)などは抜きにして、もっと伸(の)び伸びと自由奔放(ほんぽう)に競技スポーツに徹(てっ)した剣道を楽しく愉快(ゆかい)にやらせた方が、よりよい日本人が育つではないかという論法(ろんぽう)もあろう。
  もとより日本国は民主(みんしゅ)主義(しゅぎ)の国柄(くにがら)、一方的(いっぽうてき)に大人(おとな)の価値観(かちかん)を無理強(むりじ)いしたり強制(きょうせい)したり強要(きょうよう)したりすること自体(じたい)怪(け)しからん事だとと指摘(してき)される。
  さらに言及(げんきゅう)すれば、紛(まぎ)れもなく日本国は競争(きょうそう)社会(しゃかい)で成り立っている。新自由(しんじゆう)主義(しゅぎ)で色取(いろど)りされた市場(しじょう)競争(きょうそう)原理(げんり)が罷(まか)り通(とう)るは自明(じめい)の理(り)なのです。まさに受験(じゅけん)競争(きょうそう)然(しか)りなのです。
  従(したが)って、試合という競争に勝ち抜く根性(こんじょう)こそが、絶対(ぜったい)視(し)しなくてはならない価値観(かちかん)であると定義付け、そのことだけを強く主張される人たちもいられる。
 その通りなのです。間違ってはいないのです。でも、考えてみれば競争に勝ち抜くど根性(こんじょう)を育(はむく)むためだけに剣道を修行(しゅぎょう)するのでは、余りにも寂(さび)しい考えだとは言えないでしょうか。
17 二つの考えのどちらが正しいかは判(わか)らないが、少なくとも全日本剣道連盟が掲(かか)げる剣道の理念は「剣道は剣の理法の修練による人間形成の道である」と謳われていることだけは紛れもない事実なのです。