下手糞老いぼれ剣士の独り言(その3)

剣道は「礼に始まり礼に終わる」というのだが


 10 剣道では皆(みんな)大きな懸声(かけごえ)(掛(か)け声)を発(はっ)します。耳を劈(つんざ)く凄(すさ)まじい掛け声なのです。
  直木(なおき)三十五(さんじゅうご)氏は剣法(けんほう)夜話(やわ)の中で次のように文学的(ぶんがくてき)に表現(ひょうげん)しております。“烈(はげ)しい気合(きあい)は内(ない)臓(ぞう)へビシンを響(ひび)く。人間の声ではなく絶対(ぜったい)音響(おんきょう)の一つだ。真剣(しんけん)勝負(しょうぶ)での、この吼号(くごう)は十町(じゅっちょう)四方(しほう)にまで響き渡った。これは無形(むけい)の砲弾(ほうだん)だ。精神的(せいしんてき)爆弾(ばくだん)の炸裂(さくれつ)だ。” 以下(いか)省略(しょうりゃく)
また、昭和二十七年にアメリカ合衆国マッカーサー元帥(げんすい)が戦後(せんご)禁止(きんし)していた日本剣道を竹刀競(きょう)技(ぎ)の名の下(もと)で復活(ふっかつ)させた。ただし、この復活の条件(じょうけん)に“あの凄(すさ)まじき吼号(くごう)”だけは罷(まか)りならないとしたのだという。マッカーサーといえども一介(いっかい)のアメリカ人の手によって日本人の魂(たましい)を抜(ぬ)き去(さ)ることはできなかったのです。できようはずもないことなのです。
11 確(たし)かに聞く人にしたら背筋(せすじ)が寒くなり、耳をおおって逃げ出したいくらいに野卑(やひ)さと野蛮(やばん)さを感じ取るかもしれません。
 だが、もともと剣道は真剣(しんけん)を用(もち)いた生きるか死ぬるかの勝負(しょうぶ)から生まれたものです。とても怖(こわ)かったのでしょう。それこそ逃げてどこかへ隠(かく)れたいほどの恐怖感(きょうふかん)を味(あじ)わったことでしょう。
かの徳川(とくがわ)家康(いえやす)は死ぬるまで爪(つめ)を噛(か)む習癖(くせ)が直(なお)らなったという。その訳(わけ)は、若(わか)きころ敵と対戦するたびに余(あま)りの恐怖(きょうふ)心(しん)に恐(おそ)れおののき上下(じょうげ)の歯を噛(か)み合(あ)わせること出来ないので歯をガタガタ震(ふる)わせたのだという。武士の総大将(そうだいしょう)たる征夷(せいい)大将軍(たいしょうぐん)として恥(は)ずかしいことと思い爪を噛んで震えをカムフラージュしたのだという。
12 剣道では相手と対戦し、遠間(とおま)もしくは触刃(しょくじん)、交刃(こうじん)の間(ま)合(あ)いにて大声を発する。何でもよい。ヤエイー~ソレーと喚(わめ)き立てる。全身(ぜんしん)全霊(ぜんれい)を込(こ)めた魂(たましい)の叫(さけ)びを発(はっ)する。
 一足(いっそく)一刀(いっとう)の間合いまで入ったら、もう掛け声はいらない。 この掛け声は自分自身を勇気付(ゆうきづ)け、戦意(せんい)を鼓舞(こぶ)するだけではない。相手を威嚇(いかく)し、相手の戦意を削(そ)ぐ。それのみならず、相手の健闘(けんとう)をたたえる実(じつ)に高次元(こうじげん)な意味合(いみあ)いが含(ふく)まれているのです。
 日本人の魂の叫びに違(ちが)いないのです。日本人だけが持っている伝統的(でんとうてき)文化(ぶんか)の一つなのです。
この素晴(すば)らしい文化を全世界(ぜんせかい)の多くの人たちにも知らせなくてはならないのす。剣道をする人たちは、これを知らせる義務(ぎむ)があるとまで言いたいのです。逃(に)げてはいけないのです。