下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《14》

直心影流の奥義の秘伝「まろはし」を山田八郎翁が行ずるを見た山岡鉄舟は、大いに感嘆し、剣道といえども其の深遠さが此処にまで達したものがあったのか、此の「丸橋」を修めれば座禅の要なし、立禅の真体なりと申したのだという。
インターネット上の動画配信を検索しても見当たらない。かつて大森曹玄禅師に師事し高歩院にて直心影流を極められた知己桐田修男氏に伺っても殊更心当たりが無いという。
今様の達人による「相抜け」技はもとより、此の「まろはし=丸橋」の奥伝の形にどうもお目に掛かれることは適わない事のようだ。
ある意味では、極めて残念なことだ。
もう一度、鹿島神宮の例祭スケジュール表に丹念に目を通してみることにしよう。



小川忠太郎は夕雲をどのように観察し評価したか(3)

このこと自体、極めて崇高なことには違いないが、更に一歩踏み込んだところに、一方の側の誠意に満ち満ちた人間性が余りにも鮮烈であるがため、他方の闘争心とか闘志という気力の一切を次第に萎やして無力化し、遂には奪い去ってしまうのである。
相互に打ち合っても中らない。風が通り抜けるようにすれ違うだけである。瞬時にして、殺傷を忌避し、死より生を選択するに至る。
元より此の両者は「相討ち」をとことん徹底追及し果たし、「相討ち」の何たるかを知り尽くした間柄なるが故に「相討ち」からの脱却を真剣に模索したことになる。