老いのひとこと

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鶴来の剣友「やーさん」が制剛流居合を始められたらしい。


初めて耳にする珍しい流派なので興味を抱いた。


お聞きすれば尾張新陰流と関わりがあると云うので名古屋まで出稽古にとお尋ねすれば思いの外加賀市に道場があると聞いて此れまた大いに驚いた。


ついつい悪い癖で詮索致すべくネットに手が伸びてしまった。


 


複雑怪奇な絡みで正直よく判らない。


元は制剛流と新陰流は別個の流派であったが何時の間にか此の両者が融合合体したらしい。


江戸幕府が開かれて間もない頃に制剛という僧侶が ( やわら )の術を水早某に授けたのが制剛流の起こりであるらしい。


小刀を用いた護身を兼ねた柔の術であったという。


此の水早信正の弟子たちが尾張藩へ此の制剛流を伝えたり尾張新陰流の兵法補佐として制剛流の極意を浸透させていったりしたのだという。


そして、新陰流の始祖柳生石舟斎宗厳 ( むねよし )のご子孫に当たる柳生厳周 ( としちか )なるお方が大正時代に制剛流の技を錬り直し新陰流13代目道統の身でありながら柳生制剛流11代目道統を兼務する形で新陰と制剛の二つの流派は統合された。


柳生厳周 ( としちか )以降14代目柳生厳長 (としなが)12代に、15代目柳生延春厳道 (のぶはるとしみち)13代目に、16代柳生耕一厳信 (としのぶ)14代目を兼任する形で今日に至るのだと云う。


ややこしくよく判らぬが制剛流の ( やわら )の術は新流の ( まろはし )直心影流丸橋 ( まろはし )に受け継がれていったのでしょうか。


 


 


なお、柳生石舟斎宗厳の師に上泉伊勢守信綱がおり伊勢守信綱の師として陰流を学んだ ( あい )州移香斎 ( すいこうさい )と鹿島神陰流を学んだ松本備前守尚勝 ( びぜんかみなおかつ )がいる。


また、上泉伊勢守信綱の一番弟子が柳生石舟斎であるならば師伊勢守信綱の編み出した新陰流の名称をそのまま引き継ぐことになる。


そして、石舟斎の五男宗矩 ( むねのり )は将軍家の剣術指南役として名を馳せ江戸柳生新陰流を樹立するも長男十兵衛三厳 ( みつよし )の後ひ孫の代で血筋が途絶えたという。


一方石舟斎の長男厳勝の二男である兵庫助利厳 ( としよし )尾張徳川家に仕え藩主義直の剣術師範として新陰流を指南し尾張柳生新陰流を立ち上げたのだと云う。


 


 


上泉伊勢守信綱の弟子として外に大勢名を連ねるが新陰流を神影流と名を改めた奥山公重を上げざるを得ない。


此の神影流はその後代々名を改め4代目小笠原源信斎は弟子に針谷夕雲・小出切一雲を輩出させる。


7代目山田一風斎は其の名を直心影流と改め今日に至る。


此の直心影流には後に男谷 ( おだに )精一郎・榊原鍵吉・島田虎之助・勝海舟・山田次郎吉・大森曹玄らが名を連ねることになりましょう。


 


 


他方、徳川将軍家の剣術指南役に伊東一刀斎の流れを組む小野忠明が君臨し小野派一刀流が風靡した。


此の一刀流に薫陶を受けた数多くの剣士が輩出するは言を俟たない。


 


なんと剣術流派のおさらいになってしまった。