老いぼれへぼ剣士の夕雲考《87》

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           織田信長が四十歳のころ小笠原源信斎は生誕した
           その1574年に狩野永徳は洛中洛外図を世に出した
 
夕雲流剣術書        小出切一雲 誌(13)
 
針谷夕雲の師匠 小笠原源信斎(玄信)
 
9-1【小笠原は・・・】
 
            口語訳
上泉秀綱の弟子である同時に、この奥山休賀齋の弟子でもあった小笠原源信齋長治は鹿島神傳直心影流の第四代流祖に当たる人で、呼称を真新陰流と改めるのである。
源信齋は秀綱より秘伝や奥義を直に伝授されているかどうかは詳らかではないのです。
いずれにしろ、この小笠原源信齋こそが本題の主人公である針谷夕雲の師匠に当たる人なのである。
俗名を小笠原上総と言って、秀吉公の旗本衆であったのだが大阪落城後は徳川家康公を忌み嫌い、明の国へ渡り一カ年間が過ぎて又日本へ帰ってきた人なのです。
この源信齋はとても技上手な剣術家で、柳生宗厳とも秀綱門下の間柄ではあるが、徳川幕府との確執がある以上、宗厳にも将軍家光にも源信齋は決して剣技を披露することがなかったのです。
数年後、源信齋は弟子の針谷夕雲を柳生但馬守宗矩へ紹介する折に、家光公が御上覧される手筈に事を運んでいたのだが、生憎家光公が御他界されて終われ、御上覧の機会も取り止めになってしまった経緯があるのです。
その折、夕雲は四十歳ばかりの頃で、まだ新陰流を名乗っていた関係で韜(ふくろしない)も新陰流の拵えの品であったそうなのです。
 
なお、この部分は渡辺一郎先生の頭注箇所を参照した。
 
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