その1574年に狩野永徳は洛中洛外図を世に出した
夕雲流剣術書 小出切一雲 誌(13)
針谷夕雲の師匠 小笠原源信斎(玄信)
9-1【小笠原は・・・】
口語訳
源信齋は秀綱より秘伝や奥義を直に伝授されているかどうかは詳らかではないのです。
いずれにしろ、この小笠原源信齋こそが本題の主人公である針谷夕雲の師匠に当たる人なのである。
俗名を小笠原上総と言って、秀吉公の旗本衆であったのだが大阪落城後は徳川家康公を忌み嫌い、明の国へ渡り一カ年間が過ぎて又日本へ帰ってきた人なのです。
その折、夕雲は四十歳ばかりの頃で、まだ新陰流を名乗っていた関係で韜(ふくろしない)も新陰流の拵えの品であったそうなのです。
なお、この部分は渡辺一郎先生の頭注箇所を参照した。