下手糞老いぼれ剣士のルーツ《16》

此の連休に大阪の三男夫婦が孫たちを伴って墓参に来てくれた。むしろ、こちらが催促される程に彼らの信仰心は厚い。
数珠や線香の類の七つ道具は常に車中に常備しているのには驚かされる。
野田山墓地に高橋家と鉄二家、西芳寺墓所中川家と廻る。
和紙仕上げのキリコに取り巻かれた旧来からの風物詩のような光景は一変し、些か殺風景に映る板キリコに移った。
近年は六角板キリコという見栄えのいいのが盛んにぶら下がっている。
此の年も去年以上に猛暑のようだ。

そういえば、村松儀堂氏にまつわる事柄を探究することを忘れてはなるまい。
まだまだ、やらねばならぬことが多すぎる。


 もう一つ、遺品に数えられるものに村松儀堂氏に係わるものがある。明治七年より明治十七年にかけて氏が一等卒より歩兵軍曹まで昇任した辞令が十枚ほどある。
 西南戦争に従軍し、明治十年三月四日に肥後国玉名郡において、西郷軍の銃丸が儀堂の右肩を擦過したことを見證する證書がある。歩兵伍長の肩書きのときである。また、この鹿児島逆徒征討に際し尽力あったので金参拾五円の下賜金を三條実美より賜っている。
 さらには村松儀堂の法名記まで保持していた。住所は金沢区早道町四番地・大正五年三月二十五日死亡・法名 釋正真 とある。
果たしてこの村松儀堂とはいかなる人物なのかは定かではない。松井家に係わる遠縁の人か、妻楚登の身内の者か、それとも精路政之丞の知人友人の類いなのか鋭意調査せねばならない。松井彰氏へも依頼せねばならない。
県庁へ旧陸軍の内部情報の提供方を依頼したが明治初期に関するものはないとのことだ。
戦死でない限り護国神社靖国神社も無関係である。
 ご丁寧にもこの人物の借金の証文書が数枚残されていて、精路がかくなるものを何ゆえ形見として残したのか不思議でならない。
 高橋精路政之丞は、長男勝太郎と長女ちゑの二子を儲けた。ちゑは幼くして早世した。