下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《15》

今の世にかつて聖人と称した誠の剣士が、もはや存在するのかしないのか。
「相抜け」の技を幻の剣技に終わらせてしまうことは、余りにも口惜しいことだと思いませんか。
もしや、此の「相抜け」の技が現世において一般的に普及され、世間に流布し浸透したとするならば、必ずや人類の歴史の展開が異なっていた事でであろう。
愚かにして無慈悲なる戦争行為も、ましてや核開発も原爆も原発とてこの世に存在しなかったのではまるまいか。
また、其の「相抜け」を評価するような人物の存在が無いに等しい。とても、さびしい事だと思わざるを得ない。
そんな意味で、小川忠太郎範士は特異にして奇抜な剣士として特筆に値する人物なのである。


小川忠太郎は夕雲をどのように観察し評価したか(4)


鈴木大拙師は「相抜け」のことを「Mutual Escape」とか「Passing By」あるいは「Going Thughle」と英訳して欧米人に紹介した。
相互に打ち合ったその刹那に、恐怖から解放され、絶対的自由と安心を体得するに至るのだという。
「相抜け」は剣の道の極意であると同時に、「人の道」の極意でもあろう。
人の心の奥底まで知り尽くし、知り得た人同士がお互いに真の誠の心をぶつけ合えば感動と感銘が響き合うのであろう。
夕雲が弟子一雲と真剣に交えて「相抜け」を成就させた折、夕雲は香を焚き数珠を片手に弟子一雲を一心不乱に拝み拝し続けたという。
人殺し術が罷り通ったこの時代なら、死を肯定し生を否定して当たり前なのに、それとは逆に死を否定し生を肯定する挙に出てしまった。
今様の逆転の発想に違いない。まさに信じ難い程の異色の人物が突如輩出したこととなる。
正しく稀有なる人物なのである。小川忠太郎氏は遍くこの人物を評価した。
してして、その背後に何が見え隠れするのだろうか。