下手糞老いぼれ剣士のルーツ《7》

五世の祖父大橋喜ヱ左衛門が文政八年十二月に作成した先祖由緒一類附帳が、今手元にある。
随所に虫食いが著しく一部に判読不能の箇所もある。わたしには掛買いのない
古文書なので保管に細心の注意を怠ってはならない。
利治より永久移譲を仰せつかったわけだ。わたしには家宝級の逸品になった。
処が不甲斐ないことに難解で読めないのだ。日本人が日本の文字が読めないほど情けないことはない。
つらつら眺めるほどに何とも心憎いくらいに能筆で達筆なのだ。恐らく自筆ではなかろう。代書人の手によるものだろうが、とにかく崩し字が読めない。
やむなく、玉川図書館にて宇佐美先生に口語体に約して戴いた次第だが、それでも難しい表現箇所があって大変難渋したのです。古文書の素養なき事を恥じ入る次第なのだ。


どうも、大橋喜ヱ左衛門の本妻ではなく後妻の血筋が跡を継いだことになる。此のこと自体紛れもない事実のようだ。


 更に付け足すならば大橋和左衛門の次男に当たる大橋兵左衛門もこの伊藤権五郎の家来として仕えているのである。喜ヱ左衛門から見れば母方の甥になる。
 少々蛇足ながら、喜ヱ左衛門の父久兵衛と同じ医師となったのが従兄弟大橋和左衛門の三男である堤民部と同じく四男の大橋尚賢である。やはり、因縁を感じるのである。
 大橋喜ヱ左衛門の没年は文政九年(一八二六年)なので享年五十九歳となる。
五世の祖母の名はわからないが、金沢の木の新保荒町の肝煎りだった和泉屋吉郎兵衛の二番目の娘が、割り場付足軽の市川金左衛衛門の養女となっていたのが喜ヱ左衛門に嫁いだらしい。
その後、喜ヱ左衛門は後妻として伝馬町の本折屋吉左衛門の三番目の娘を迎えている。
つまり、先妻を文化七年(一八一〇年)四月八日に病気で亡くしたので、翌文化八年(一八一一年)五月に喜ヱ左衛門は御先筒足軽であった市川直左衛門の養女となっていた本折屋吉左衛門の三女と再婚するに及んだことになる。
この後妻の実子である大橋金之丞が他でもない高橋家の高祖父となる人なのだ。
由緒書には目立たないように、「せがれ 十六歳 大橋金之丞」と表されているのである。十六歳の年齢から逆算すれば間違いなく再婚の年と合致するのである。
由緒書には先妻の記載はないのだが、多分誰かが大橋家を継いだのだろう。大橋金之丞は後妻の子ゆえに大橋家を継ぐことなく養子にならざるを得なかった。
喜ヱ左衛門の由緒書の最後に宗旨は一向宗であり寺は金沢の下材木町にある善福寺が檀那寺・菩提寺に御座候とある。              つづく