下手糞老いぼれ剣士のルーツ《10》

たかが切米二十俵と言うささやかなる足軽家にしろ高橋の姓を死にもの狂いで死守した高橋金之丞と、此の高橋家へ婿養子として入籍した松井政之丞こと高橋政之丞がお家断絶という最悪の事態を回避してくれたことになるのだ。 
 なるほど、岐阜大垣城主の家老職を務め上げた大橋源左衛門との血の繋がりこそ途絶えてしまった歴史の宿命は甘受せざるを得ないが、その厳しき現実を乗り越えて今日吾らが此処に存在する真価を悦びとして悟り入れなければならない事の方がずっとずっと大事なのだ。感謝感謝、どうもありがとう。




曽祖父・曾祖母

 曽祖父の名前は松井政之丞という。高橋金之丞のもとへ養子として入籍し、高橋政之丞と名を改めた。住居は加賀国の第九区池田町立丁五番地にあったが、その後住所を蛤坂町二十三番地の二に移して新居を構え、名前も高橋政之丞から高橋精路へと改めた。
その後、隠居し勝太郎が戸主となった時点で住所を早道町八拾参番地へ移つしている。
 蛤坂に住んだ高橋精路と楚登はわれらにとっては、ヒイじい・ヒイばあと相成る。幼きころ父より高橋の家が蛤坂にあったとよく耳にしたことを思い出すのである。
 曾祖父高橋精路は天保三年(一八三二年)一月十五日生まれで明治三十九年(一九〇六年)五月四日に逝去した。父忠勝が六歳の時になる。
七十四歳の生涯だった。藩政末期のころ精路への年中の御切米は、やはり二十俵止まりであった。
曾祖母高橋楚登は弘化四年(一八四七年)五月十六日に同じく足軽の身分であった高橋増三郎の娘として生まれている。没年については戸籍謄本に記載されていないところを見ると入籍してないのかも知れぬ。
当時は世継ぎを確認してから入籍することがあったようだ。同じ高橋姓なのは、あるいは遠縁なのかも知れない。
既述した角川書店発行の石川県姓氏歴史人物大辞典の三百三十一ページ、中の段右五行目に高橋金之丞の子精路政之丞(二十俵)と小さな活字で一行足らずの記載がある。
永き藩政期にわが高橋家のご先祖が、足軽分際ながらも士道に背くこともなく営々と働きながら士分にこだわり高橋家の存続にこだわりつつ、何か得体の知れない何ものかに、死に物狂いで挑み撥ねのかされても挑み続けた。
その結果として藩制の維持に何らかの形でちゃあんと寄与し貢献しているのだという無言の表示だろう。
心配要らないよ。安心し給えよ。この小さき文字がわれらに訴えているように思えてならないのだ。
同じ個所に楚登の父高橋増三郎も静かに見守っている。楚登の実家が同じ高橋の姓を名乗る根拠や理由付けについて、やはりは判らないのである。つづく