老いぼれへぼ教師の回想記《7》

昼間は公人として職務に携わるは当然なら、勤務時間を外れればこれまた当然のこととしてみな私人と化す。
聖職者如き存在とは随分掛け離れた低俗なる凡人に違いはない。少なくとも此のわたしに限っては間違いのないことであった。
当時保育所とわたしたちの分校舎にテレビ受像器があり裏山山頂より導いた共同アンテナで電波を供してはいたものの一向に映らない。目がちかちかして頭までおかしくなる。そういうことなので、
健全志向にてよくピンポンにも興じた。みな達人揃いだが抜群の業師は何と言っても桂三氏であった。
今でも此の年になっても卓球は打てる。何を隠そう、つい先だってもふれあい体育館にて板宮氏とラリーに興じた。まさに昔とった杵柄の、例え通りなのです。

往時が懐かしい。
何故かしら、ジャンブームは下火になってしまいました。





マージャン

 私の三畳間とふすま一枚で隣接する部屋が、寄宿舎の中でも格別の空間となっていた。会議室であり食堂でもあり、また応接室でもあり何よりもわれ等の団欒の間であった。連日、よく語りよく歌い飽きずによく飲んだ。
 そして、その留めはよくよく卓を囲んだものだ。その部屋の主人は守田光輝氏であり上野正明氏であり最後は江尻桂三氏が引き継いだ。
三人三様で良きホスト役として、全てを取り仕切り取りまとめた。コサにタエモン、又八さんらは常連だった。
 一番の実力者は桂三氏、学生の頃ジャンボーイで鳴らしたという。多方面に器用な人だ。世間ずれした光輝氏は、話術でまわりを撹乱した。
 末岡敬正氏と並び多大な感化を受けたのが、何といっても上野正明氏だ。牧野富太郎張りに植物の名前を熟知している。
驚くべき記憶力で、ガマの油の口上を全て空暗記していた。また、ヒットラーかぶれでよく話を聞かされた。
 とにかく、勉強家で努力家だ。富大での理科と畑違いの高校商業科の免許を日大通信制で取得していた。その彼の実家が古紙回収業でそつなき商売人の血が流れていた。
 私に強く蓄財を勧めてくれたことが、今日の私そのものに結びつく気がする。菊水生活三ヵ年間に支給された本俸の七パーセントに及ぶ僻地手当てと宿直代の全てが、昭和三十九年に鈴見団地での四十二坪の土地購入に連なった。高度経済成長期の為せるわざであった。
その彼を交えてよく卓を囲んだ。私も次第にのめり込む羽目となり、とうとう病み付き同然と相成った。
 佳境に入り、見境なくタバコを吸った。灰皿には吸いさしが何本も並ぶ。足元には、炭火で熾した掘りコタツがあり、よく手を突っ込み煙草火をもみ消したりしていた。
 ある夜、私は何気なく、いつものように揉み消しを試みたその瞬間、突然大きな悲鳴と共にジャン卓が突如、部屋一面に飛び散った。見事にどす黒く焼け爛れた、上野さんの足の甲を今もって忘れることはない。恩を仇で返したことになる。その晩彼は相当の発熱をもようした。           つづく