下手糞老いぼれ剣士の夕雲考《7》

本日午後には不信任決議が決着しよう。共産・社民両党は棄権を報じていた。
天晴れかな、相抜けの業をわれらによくぞ披露した。
此のドタバタ劇を夕雲は墓場の陰で嘆いている。相も変わらず畜生剣法に明け暮れする愚か者めがと一喝しているではないか。
ムーチャル ストライキング ダウン なのですよ。共倒れなんですよ。
何と憐れなることか。


でも現代の剣客甲野善紀氏は、この針谷夕雲に注ぐ目はネガテブとしか言いようがない。些か残念至極に存じる次第なのだが・・・








甲野善紀は夕雲をどのように観察し評価したか=其の1


その間の経緯については、現世の剣客であると同時に押しも押されもしない論客の第一人者としても著明なる甲野善紀氏が明快に分析された。
針谷夕雲に始まる無住心剣は小出切一雲から万里谷圓四郎義旭へ継承され四代目川村秀東の代で自然消滅したのだという。
その依って来たる最大の要因は、この流派には具体的な剣の術技の裏付けが極めて希薄なのだという。
対峙する双方共に受ける、外す、避ける、躱す、捌く等の変化の技は無視する。若しくは度外視し皆目眼中に入れることがない。
ただひたすら、相討ちにのみ専念する。相討ちに撤する内に、打たれることを気にしなくなる。
→打たれて負けることを気にしなくなる。
→打たれるかもしれない不完全なる己自身を捨て去るようになる。
→すると不思議にも己だけが一人勝ちするのだと意識し始めるのだという。
 甲野氏は重ねて、剣の術技ほど身体的なハイテクノロジーの最たるものがないにもかからわず、この夕雲流剣術は心的充足度が極点に達し、気力が充実し昇華し切った情況下で成立する極めて心的要求度が強力なる剣法なのだと論破された。
 即ち、無住心剣は唯心論とか気の論理、心身論に根差した心法そのものであり、禅修行の帰着点なのだとおっしゃる。           つづく