口が腐っても云ってはならぬこととは承知の上ながら、それは恐らく世俗の目からすれば、まさしく八百長のように映ったのだろう。
科学的に理性の目で観察すれば、神懸かりな技であり、能舞台での能役者の立ち振る舞いそのものに近かったのだろう。
恐らく当時ですら、この「相抜け」を真実理解し得る力量の持ち主はほとんどいなかったのではあるまいか。
『夕雲流剣術書』ーはじめに(18)
小出切一雲のこと=その10
最悪の事態を回避するべく、一歩下がり譲歩する。
そこには自己犠牲・自己否定の哲学があるのではなかろうか。
その間の、わたしなりの稚拙過ぎるアホみたいな見解を6月2日と6月8日投稿したブログの中で開陳させていただいているのです。
2011.6.2投稿分
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