下手糞老いぼれ剣士の独り言

政局と  ブログにはまり  齷齪す

些かやけくそ気味自嘲気味
またまた菅降ろし劇が再開されたと朝刊が報じる。
そして、あの亡者如き例の二人が暗躍し始めたという。
あの六月二日のお昼時醸し出された党内融和の絶妙のハーモニーは今何処。何処へ行ってしまったのか。
またしても耳を覆う不調和音が鳴り響き、みな変調をきたすのか。
片や、せせら笑いに興ずる一部勢力は問責決議をちらつかせ切迫して来よう。

 犬の散歩の道すがら通路左隅をゆくわたしの前方より厳つき容貌の若者が一人通路右側に位置したまま相互に接近した。
 わたしにしたら、長幼の序の教え通り先方より道を譲るものと歩みを進めるが一向に其の気配がない。
 あわやと思う瞬時にわたしは私の方から身をかわした。かわさざるを得なかったのだ。
 擦れ違いざまに相手を覗うに、何とも形容しがたき恐ろしき形相で年老いし老いぼれを睨んでいるではありませんか。
 これではいかんと思った。一言、箴言に及ぼうかとも思ったが躊躇した。形相が尋常ではなかった。
 大袈裟に言えば身の危険すら感じたわけだ。

 お互いに道を譲り合う心優しい公徳心。日本人が一番誇りとする謙譲の美徳が地に落ちた。
 教育の敗北だ。すまないと思った。おのれの無力を恥じた。

 江戸時代に歩行者は右側を通ったのか左側通行であったかは定かではないらしい。
 右側を行けば、擦れ違いざまに切り臥されることはない代わりに双方の鐺が触れ合い咎め立てが生じよう。
逆に左側を行けば、鞘当の悶着はなかろうがいきなり切り付けられる恐れはあろう。そこで、
見立てや風采は芳しくないが侍には落とし差しという佩刀法があったのだという。
これならば、鞘や鐺は触れ合わないしいきなり切り付け合うことも難しくなろう。生活の智慧なのです。
江戸の昔ですら、争い事を避けるためにお互いに当事者同士が譲り合ったのです。

それに引き換え、今の世の為政者たちは国民の目の前で見苦しき権力闘争を繰り返さねばならないのか。
益してや311国難時に何とも愚かしい。何が東工大だ、東大だ、慶応だ。みな脳足りんのクルクルパーだ。
呆れてモノも言えない。永田町の公舎か官舎か知らないが国民の目の届かぬ所ではない、東北被災地の被災民の眼前にて白日に御天道様の真下で言いたい放題言えばよかろう。恥ずかしくて何もいえぬはずだ。
お互いに下らない矜恃とやらを保ち得た安っぽい達成感をお捨てなさい。
最高位にある人は折れねばなりません。譲らねばなりません。慮らねばなりません。
真の男の心情、武士道精神発揚の時です。発揚の場が到来したのです。
是非とも、日本国民をウウーンと唸らせて欲しい。